為有源頭活水来
(それは源から絶えず新鮮な水が流れ込んでいるからだ)
朱熹「観書有感」の詩———
“半亩方塘一鑑開、天光雲影共徘徊。問渠哪得清如許,為有源頭活水来。”
「鏡のように澄んだこの小さい池に、日の光と雲の影が映り流れて行く。この池の水はなぜこれほど澄んでいるのか。それは源から絶えず新鮮な水が流れ込んでいるからだ。」
ほんの半畝ほどのこの池は鏡のように透き通っていて、陽の光と雲の影が映って流れていく。なぜこの池に注ぐ運河の水がこんなに澄んでいるのかと聞かれれば、運河の上流に源があって、活きている水が滔々と流れ込んでいるからだとだと答える。朱熹はこの詩の中で「源」を強調し、更に「活きている水」を強調して、まるで画竜点睛のように「源から流れ来る活きた水こそ、池の水を澄ますことができ、池を鏡のように明るくすることができる」と言っている。
もちろん、朱熹は南宋の政治家であるから、彼の「観書有感(本を読んで感じるところあり)」は、先ず社会の現状に着眼し、池を鏡に喩えて一目で余すところなく見渡し、世の悪弊をずばりと指摘した。それは国を良く治める方策の歴史は長いことを意味する。活きた水を基礎にすれば国土は美しく栄える。世界の友好国との関係を見るとき、私たちは歴史に源を求め、きっかけを見つけることができよう。秦の徐福が日本へ渡った物語、唐の鑑真和尚の伝奇、そして明の隠元禅師の仏法布教……それは中華文明の清らかな泉を引き継ぎ、流れ続け、高らかに賛美の歌を歌っているかのようだ!
(編集者:秦川)