此曲只応天上有,人間能得幾回聞
(この曲はただ天上界に有るべきもので、人間界で何度も聞くということができようか)
唐の杜甫の詩「贈花卿(花卿に贈る)」より
錦城絲管日紛紛,半入江風半入雲。
此曲只應天上有,人間能得幾回聞?
錦城の糸管日に紛紛たり、半ば江風に入り半ば雲に入る。
此の曲只応に天上に有るなるべし、人間能く幾回か聞くことを得ん。
錦官城の弦楽器と管楽器の音は日ごと夜ごと、にぎやかにしている。その音は半分は錦江に風に乗って入りて清くし、半分は雲中に入りてひろがる。この宴で奏る曲はただ天上界に有るべきものであろう。(この程度の武功で驕っているなんて)どうしてこの人間界で何度も聞くということができるというのか。
詩を贈られた花卿は、唐の猛将、花敬定だった。錦城は現在の四川省成都にある。絲管は絲竹とも呼び、楽器のことを指し、広く音楽を指すこともできる。
そのような美しい音楽は、一日中梁の周りで、空と地球に響き渡り、川のそよ風に溶け込んだり、雲に浮かんだりすることができる。だから、この音楽は天国の神の館でしか楽しむことが出来ない。この世で何回聴くことができるだろうか?
杜甫のこの絶句は成都の音楽の美しさを賞賛していることは明らかだが、その裏には、婉曲な言語表現で、君主と大臣の違いを説明し、分不相応な争いを排除しようとの意図があった。
おそらく、音楽が人々の心を動かし、人々の気持ちを伝えることができる理由は、まさにそのメロディーの滑らかさと、起伏に富んだリズムで、空を行く雲や水の流れ、肌に快い春風のように特別な効果を発揮するからだ。
近年、中国の琵琶や二胡などの民俗楽器の演奏会が日本全国各地で上演され、好評を博している一方で、北京などで日本の和太鼓の演奏の鑑賞も盛んで、チケットが手に入りにくいほどだ。
時には、違いを残しながらも共通の理想を段階的に追求することは、雲と霧を突き抜け、大空に広がる音楽のようになる。
(編集者:秦川)