中文 (中国) 日本語
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月曜日, 12月 9, 2024
中文 (中国) 日本語

師 恩

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(映画シナリオ)

主な登場人物

魯迅(周樹人・字豫才) 官費日本留学生
秋瑾(女) 魯迅の日本留学時の紹興の同郷
許寿裳 魯迅の日本留学時の親友
孫文(孫中山・字逸仙) 日本を訪れた民主革命家
宋慶齢(女) 孫中山の夫人兼秘書
許広平(女) 魯迅の終身の伴侶
周作人 魯迅の弟、魯迅に続いて日本に留学
陳天華 日本に留学し革命思想に目覚めたが、後に入水自殺し、世に警告した。
藤野嚴九郎 魯迅の日本留学時の恩師
増田渉 魯迅の愛弟子
山本明日香 紹興会館の女主人

物語の舞台

日本 東京・仙台・箱根
中国 上海・紹興・アモイ

(プロローグ)

  上海黄浦江十六埠頭。車や人々が行き交い、賑わっている。
汽笛の音が長く尾を引く。接岸した一艘の客船「旭丸」のタラップから一人の日本人青年が、急ぎ足で降りて来た。藍印(らんいん)花(か)布(ふ)の包みを両腕にしっかり抱え、まとわりつく数人の物乞いをなんとかやり過ごすと、まっすぐ走って川沿いの通りに向った。
“増田君――”通りの傍らに停めた輪タクの運転席で、坊主頭の車夫がくたびれたフェルト帽を振りながら、大声で呼んでいる。
青年は素早く一歩前に踏み出すと、その声に応じて輪タクに飛び乗り、にこにこしながらどっかと座席に腰を下ろした。
ふと見ると、座席のそばに置かれた「大公報」の黒い太字の死亡通知が目に入った。

文豪魯迅逝去 葬儀 1936年10月22日 於 万国共同墓地
ボーー! 汽笛が悲しく響き、波が岸に打ち寄せる。
ナレーション:先生! 先生――、私、増田渉、遅くなって本当に申し訳ありませんでした!
日本の青年増田渉はひどく悲しみ、藍印花布の包みをしっかりと胸に抱きしめ、死亡通知を見つめながら、じっと涙をこらえている。

上海万国斎場の門の外、うごめく人の群れ、あたりは悲しみに満ち溢れている。
突然、門が開かれ、重々しい出棺の音楽の中、魯迅の棺がゆっくりと運ばれてきた。棺を担いでいる巴金、葉聖陶、張天翼、肖軍らは涙を浮かべた目を伏せて、しずしずと歩いている。そのすぐ後ろから、喪服に身を包んだ許広平が出てきた。泣こうにも声も出ず、
足元がふらつくのを、傍にいた宋慶齢は支えようとして危うくハンドバックを取り落としそうになった。二人は寄り添って前に進み、万感の思いをたたえた眼差しを交わし合ってお互いをいたわっている。
この時、後方から急ぎ足で追いかけて来た増田渉が、人だかりにもまれながらも伸びあがって、二人の婦人を見つけた。増田は小さく声をかけて前に進み出ると、目で合図しながら、素早くあの藍印花布の包みを差し出した。
許広平は驚いてその包みを受け取り急いで開けようとしたが、ふと何かを思い出したかのように、振り向いて宋慶齢のハンドバッグを見て、悲しい笑みを浮かべた。宋慶齢ははっと気付いてハンドバッグから封筒を取り出し、“増田さん、これは魯迅先生が生前、私からお渡しするようにと託した大切な物です。今日は良い時に来てくださいましたね……”と言い、許広平が傍らで頷いた。
“ありがとうございます!”増田渉は恐れ入った様子で封筒を受け取り、しっかりと胸に押し当てた……

夜が深々と更けた。簡素な机に電気スタンドがぼんやりと灯っている。増田渉が封を切った封筒から便箋を取り出すと、一枚の黄色みを帯びた写真がぽとりと落ちた。
写真の裏面がカメラに向かって次第に近づくと、「惜別」という二文字がはっきりと認められる。その筆跡は熟練していておおらかな味わいがある。「惜別」の下には、「藤野」と署名があり、左上には「謹呈周君」の四文字がある。中でも「周」の文字は特に墨の色が黒々と豊かで、見るものに筆者の真心が迫って来るかのようだ。
カメラが徐々に引いて映し出すのは、写真を手にした増田渉の生真面目な表情、急いで視線を写真の表に移すと――藤野嚴九郎先生――日本仙台医学専門学校教師の穏やかな肖像である。
増田渉の声:“魯迅先生の本名は周樹人、1904年の初秋、大清国官費日本留学生として仙台医学専門学校へやってきた――”

(一)

  日本の東北地方に位置する仙台。深い森に囲まれたその町は既に秋を感じる季節だ。ちらほらと楓が色づいて、あたかも薄化粧の美女のようだ。
“仙台医学専門学校”の校門は広々と開かれ、左右の太い門柱はまるで翼を開いて迎え入れるかのように、絶えず各地からやってくる学徒を抱きとめている。
階段式の6号教室には、黒い制服に身を包んだ男子学生が席いっぱいに整然と座り、一面黒一色だ。
二十歳そこそこの青年魯迅(周樹人)は、前から五列目の真ん中の列の右の方に着席した。すると突然廊下のベルが鳴り響き、窓際に立って雑談していた学生たちは速やかに席に着き、あっという間に静かになった。ほとんど同時に、藤野嚴九郎先生がたくさんの本を抱えて教室に入って来ていた。全学生はさっと起立したが、藤野先生は本を教壇に置くと、ずれてしまった金縁の眼鏡をかけなおすと、厳かな口調で“皆さんこんにちは。新学期が始まりました。どうぞ、おかけなさい”と言った。学生たちはがたごとと腰を下ろしたが、周樹人は興奮した様子で、立ったまま動かない。
“君、どうかしましたか?”藤野先生が顔を挙げて見つめると、“はい、周と申します……”と周樹人がちぐはぐな返事をしたので、周りの学生がどっと笑った。
藤野先生は、すぐに手を挙げて笑いを制すると、にこにこと嬉しそうに、“おお!? 聞いている、聞いているよ、隣国大清の官費留学生だね。しかし、仙台に医学を学びに来たのは君一人だ。君に聞きたいのだが、清国の漢方医学と言えば、名医が全国におられるというのに、君はなぜ西洋医学を学びに来たのかね?”
周樹人は“私の父は漢方医の治療が手遅れになり亡くなりました。ですから、病人の命を救いたくて、西洋医学を学ぼうと思ったのです”と答えた。
藤野:“うむ、なるほど。”
周樹人:“それに、明治維新の始まりも西洋医学でした。”
藤野:“おお…周君良いところに目を付けましたね、素晴らしい!”
先生が褒めたので、学生たちもすぐに拍手を始めた。
樹人は思いがけなく褒められて驚き戸惑い、抑えきれずに思わず“まだあります、清国の女の人は纏足で苦しんでいますから、西洋医学で治してやらなければ!”
“女の纏足だってよ……はははは!”学生たちはまたひとしきり大笑いする。
“静かに!”藤野先生は厳しい顔をして、両手を挙げて力強く下ろした。つかつかと大股でまっすぐに周樹人の前に歩み寄ると、優しく両肩に手を置き、心を込めて言った。“周君、君には大きな志がある。しっかりと西洋医学を学びたまえ!”

(二)

  机の上に置かれた電気スタンドの明かりの下で、増田渉が写真を見ている。……写真がアモイ大学の職員宿舎の部屋に変わり……中年の魯迅が明かりの下で筆を執り「藤野先生」の四文字を書く――
魯迅(独白):“藤野先生の思いやりと励ましは、私の心に刻まれていつも忘れることはない。仙台へ医学を学びに来る前の私は、ずっと孤独で、迷いの中で、常に何かを探し求めていた……”

「東京弘文学院」の正門前はたくさんの人で大いににぎやかだ。数十名の清国から着いたばかりの留学生は、長い辮髪、馬褂(マーグァ)という中国服で道行く人たちの目を引いていた。学校の教職員たちは、親切に秩序正しく、これらの新入生たちをそれぞれの教室に誘導している。
各教室で突然拍手が起こり、先に着いていた清国留学生たちが歓迎の意を表している。留学生たちはほとんど黒い制服を着ていて、日本の学生と同じように見えるが、ただ、帽子が高く盛り上がって滑稽である。帽子の下にぐるぐる巻かれた辮髪が隠されているためだ……“辮髪を隠している者”は“辮髪を首に巻き付けている者”を見て、互いにからかい合って笑ったりして、和やかな雰囲気だ。
ちょうどこの時、平らな帽子を被った学生が急ぎ足でやって来て、いくつかの教室の番号を見上げて確認するや、そのうちの一つにまっすぐ入って行った。教室内はたちまち静かになり、皆の視線は一様に怪しがって、やってきた学生の皆と違って平らな帽子にくぎ付けになった――
“はは! 僕の戸籍でも調べようってのかい?”この学生が素早く帽子を脱ぐと、さっぱりとした西洋式の短髪が露になった。
“わあ、辮髪がないぞ!”と驚いて叫ぶ者あり。
“中国語を話すくせに、辮髪がないなんて?”と嘆く者あり。
“常軌を逸した、奇妙なやつ――いったい何者だ?”心配そうにつぶやく者あり。
“君?君は周樹人じゃないか!”ひとり人込みから抜け出して飛び掛からんばかりに進み出て、こう言う者がいた。“豫(よ)才(さい)(魯迅の字)、紹興城東の許寿裳だよ!”
周樹人も大いに喜んで“寿裳だって?ずいぶん探したんだよ!”
許寿裳は周樹人の手を引っ張って教室を出ると、帽子を奪い取って樹人の頭にかぶせ、“君、命がいらないのか?”
周樹人は、平然と答える。“はは、どうして命がいらないものか、西洋医学を学んで帰って、千万の人々の命を救おうというのに……”
許寿裳は慌てて言葉を遮って:“大胆にも程がある!辮髪がなくて、どうやって帰国するんだ?”
“死ぬのが怖けりゃ帰国しないさ、帰国するからには死も恐れないさ!”周樹人は今度は許寿裳の手を引っ張って“行こう!肝の据わった女子に会わせてやろう。そうしたら君も男がどうあるべきか分るよ。”
“行くとも、女子なんかこわくない!”許寿裳はへへっと鼻で笑う。

(三)

  東京神田の街角。通りには書店や大衆食堂が立ち並んでいる。
見上げると嬉しいことに、《紹興会館》の金字の看板が目にまばゆく映った。――力強い魏碑(北魏の石碑)の字体、梨の木に施されたぴかぴかの黄色い漆塗り。許寿裳は、見上げると生唾を飲み込んで、勇み足で入ろうとするが、周樹人に腕をつかまれて引き留められる……。
“いらっしゃい、いらっしゃい!”歯切れのいいお国言葉が会館の中から聞こえてきた。会館の女主人山本明日香が入り口で笑顔を振りまいて続々とやってくる若い留学生たちを迎えていた。明日香は粋な年増女で、けばけばしく厚化粧をして、媚びるような目つきであたりを見回している。道の向かい側に周樹人と許寿裳を見つけると、大いに喜んで、急いで呼びかける:“まあまあ!旦那さん、早くこっちへいらしてくださいな!”
“今行くよ、今行くよ!”周樹人は遠くから手を振って応える。 傍らの許寿裳が小声で:“肝の据わった女子って、あの人か?”
“まさか!見て驚くなよ!さあ行こう……”周樹人は許寿裳を連れて通りを横切り、紹興会館の正門の前に行った。
明日香:“周の旦那、今日はまたどんな風の吹きまわしかしら?”
周樹人:“はは、温かい東南の風邪が、紹興の若旦那を運んで来たよ”と言うと、振り返って許寿裳を指して“彼は許、「白蛇伝」の中に出てくる許仙の許、長寿の寿、衣裳の裳。”
“あれまあ、許、寿、裳、良いお名前ですこと!許仙と白娘子(バイニャンズ)(白娘子は白素貞のこと)は長寿でいつまでも相思相愛、お召し物は会館で洗いましょう、きっと心地よくお過ごしいただけますよ!
いらっしゃい、いらっしゃい、奥へどうぞ……”明日香はまるでワルツを踊るかのような足取りで前に立って進み、あっという間に、廊下の一番奥の“タタミ”敷きの日本間へ客を通し、目を細めてにこやかに、すぐお茶をお持ちしますと言う。
許寿裳は思いがけない歓待に驚いて、:“おお、こんなにもてなされては、泊まらないわけにはいかなくなるよ!”
周樹人はすかさず:“はは、ここの女主人は親切な人だから、自分の家にいるつもりでいいんだよ……”と言うや畳の部屋に置かれた座卓のそばに胡坐をかいて座り、手を伸ばしてポケットから煙草を一本取りだし、座卓の上のマッチで火をつけると、悠々とふかしながら:“おお、そうだ、君に聞きたかったんだが、紹興城南の「和暢堂(わちょうどう)」秋家の令嬢秋璇(しゅうせん)卿(きょう)を知っているか?”
“知っている、知っているとも!”許寿裳は周の真似をして胡坐をかいて座るが、不慣れなために姿勢をあれこれ調節しながら、“和暢堂の深窓の令嬢秋璇卿、そして、都の王家の若奥様だろう。聞くところによれば、女権獲得のために日本へ留学したとか?!”
“今は昔とは違うよ!”周樹人はいきなり煙草を一気に吸いこんで、ゆっくりと長く煙を吐きながら“秋家のお嬢様、とっくに秋瑾と名前を改めて、「鑑湖女侠」と号しているよ。君、会ってみたいか?”
許寿裳ははっと悟って、:“ああ――、さっき君が言っていた肝の据わった女子って、その人のことだね! はは、女仁侠なら女仁侠でもいいさ、同じ紹興人なら何も怖がることはないさ、会うよ!”
周樹人は灰皿に煙草を擦り付けて消すと、立ち上がって:“よし、じゃあ行こう――”
二人が部屋を出ると、女主人の明日香が茶器を捧げ持ってこちらに向かって歩いて来るところだったが、すぐ立ち止まった。
明日香は二人の様子を察して:“まあまあ! 若き英雄さんはせっかちだこと、そんなに急いでどちらへ?”
周樹人は片方の拳をもう片方の手で包む礼をして、:“おかみさん、恐れ多いお言葉! 若き英雄とはおこがましい、鑑湖女侠に会いに参ります。”
明日香はぷっと噴き出すと、:“ほほ!女仁侠秋様なら上の階においでですよ。来客中です。わたしがご案内しましょう。ちょうどお茶を届けますから、賑やかしに参りましょう!”

(四)

  紹興会館の二階、雅やかな和室。
畳に置かれた座卓の上に藍印花布の包みが置かれている。包みの四隅は角がくっきり表れている。
座卓のそばに正座する秋瑾は、曲線柄の和服に身を包み、東洋風の髷を結っている。相対して座っているのは辮髪を切った清国の男で、髪を肩まで下ろして端座している。
秋瑾:“あなたの文章は素晴らしい! 題目だけを見ても「世の人に警告し」「目を覚まさせる」ものです。きっと民衆を目覚めさせ、世の暗闇を打ち破ることができると思います……”
“ありがとうございます!秋さんに励ましていただいて感謝です!”髪を肩まで下ろした男はしきりに頷いて、感激した様子である。
“トントントン”とノックの音がすると、秋瑾はすっくと立ちあがり、“はい!”と言いながら、戸を開けに行った。斬髪の男も、身を起こして傍らにかしこまって立つ。
“ちょっとお邪魔しますよ!”明日香は先手必勝とばかりにあっけらかんと大声で“女仁侠さんには偉いお客さんが多くて、おかげさまで会館も繁盛しますよ!また紹興のお客様ですよ――”
“どうぞ、どうぞ! 会稽(紹興の山)東瀛(日本)に連なれば、天涯も近隣のごとし。” 秋瑾が言い終わらないうちに、周樹人と許寿裳が続いて部屋に入って来て片方の拳をもう一方の手で包む礼をした。明日香はそのあと、運んできた茶器を座卓に置き、微笑みながらさっさと戸を閉めて行ってしまった。
“みなさん、どうぞお楽に――”秋瑾は自分から座り、茶を入れながら“ここのおかみさんときたら、全く油断も隙も無いんだから、はは!”と言う。
部屋の壁には、一幅の対聯(対句を書いた紙)が貼ってある:“競争天下、雄冠全球(競い合い、世界の冠たれ)”。周樹人は顔を挙げて見ると、はっと気づいて:“おお、秋さん、数日前に聞いたのですが、秋さんは最近号を「競雄女子」と改めたそうですね。天を貫くような豪気な号ですが、ここに出典があったんですね!”
“まあ、お茶でも召し上がれ!”秋瑾は一つ一つ茶碗を配り、周樹人の前に来た時、“豫才くん、あなたとはもう親しい仲なんだから、遠慮しないでください。早くそこで赤くなっている秀才を紹介してくださいよ。”
許寿裳はそれを聞いて一層顔を赤らめ、少しどもり気味に:“お……お噂はかねがね伺っております、秋……秋女侠、その明朗闊達な心意気、じ……実に、敬服いたします!”
周樹人は横から助け舟を出して:“そう、この紹興の同郷、姓は許、名は寿裳、自費留学生として来たばかりなんです。秋さんにはよろしくお願いします!”と言い、秋瑾の傍らの斬髪の男に視線を転じ、慌てて言った:“おお、それにしても、そのお客人、一度もお会いしたことがないですね!”
秋瑾は屈託なく:“その通り、この方こそその名も高き陳天華さん!湖南の人は辛いものが好きだけど、この方の文章もかなりの辛口ですよ。新聞に載った「猛回頭(にわかに振り返る)」と「警世鐘(世界への警鐘)」は陳天華さんの大作です……”
“いやいや、まだまだ皆さまのご指導が必要です!”と陳天華がすぐに謙遜する。
秋瑾は周樹人と許寿裳が互いに向き合って黙っているのを見て、素早く手を広げて座卓の上の布包を自分の前に引き寄せ、器用そうに指を動かして包みの紐を解こうとするが、意外にも結び目が固くてほどけない。秋瑾は突然立ち上がって和服の帯から短刀を取り出すと、鞘から抜いて勢いよく包みの紐を断ち切った。……一瞬の出来事に三人の男はあっけにとられてしまった。
陳天華は秋瑾の思いを以心伝心で悟り、解かれた布包を受け取り、中の書籍――“警世鐘”と“猛回頭”を取り出し、それぞれを二人の客に渡して言った:“どうかご指導ください!”
許寿裳は感動のあまり思わず:“ああ、これは皆あなたがお書きになったんですね、全く敬服の極みです!”
周樹人は、思うところある様子で:“おお、百聞は一見に如かず、天華さんの文章はあんなに鋭いのに、お人柄はこのように謙遜で柔和であられる。お会いできて誠に光栄です!”
秋瑾はすかさず:“こんな出会いは実に得難い出会いです、さあ、お酒の代わりにお茶で乾杯としましょう!” そして、三人の男が次々に茶碗を掲げて応じるのを見ると、興奮して:“同志の皆さん、祖国に報い、大いに才能を発揮して、皇帝を馬から引きずり下ろしましょう!”と言うや、座卓に置いた先ほどの短刀をつかみ、手を高く上げて空に円を描いた。
“ははは……”小さな部屋に笑い声が響いた。
こみあげる思いに熱くなった周樹人は思わず学生帽を脱ぎ、其れを扇子代わりに扇ぎ始めた。陳天華は樹人も短髪であるのを見ると、大いに喜んで:“わあ!留学生の中に、初めて蟹を食った者のように勇気のある者が一人いると聞いていたが、あなただったのですね?”
笑っていた周樹人も、その声にハッと気づいて、陳天華のバッサリと切った髪を指さしながら、まるで知音に出会ったように嬉しそうに:“やあ! 君見たまえ、君の髪は、長いかと言えば長くないし、短いかと言えば短くない、何かに似ているんだが?……ええと……”と言いながら振りむいて許寿裳に耳打ちすると、寿裳が大笑いする。
“は、は、は、は!”それぞれの思いでそれぞれが笑い、笑い声は豪気な心情にあふれる交響楽のように響き合った。

(五)

  明朗な笑い声は岸に打ち寄せる波の音に変わった……
アモイ大学の教員宿舎、夜の景色にまばらな灯火が弱弱しく瞬いている。
魯迅の机の上の電気スタンドはまだついていない。ただ煙草の火が明滅して、時折魯迅の沈思黙考する顔を映し出している。手元にある原稿用紙はぼんやりとしてはっきり見えないが、「藤野先生」という四文字だけがくっきりと目に映る。
カメラが遠のく。かすかな星明りを頼りに、魯迅が立ち上がって歩いて行き、窓の前に立つのが見える。左手の指はまだ火のついていない煙草を挟んでおり、右手は濃いひげを撫でている。
魯迅の両の目は鋭い光を帯びて、窓の外の夜の風景を見つめている。突然、マッチを取り、素早く擦って煙草に火をつけた。火のついたタバコは夜の闇を照らし、魯迅の心にも光が差した――
(魯迅の独白):“あの時、仙台医学専門学校の教室や教鞭、秋瑾女史の和服と短刀、陳天華の檄文と豪気な心意気……それらによって私は暗闇に輝く星の光を見たように感じた!”
仙台医学専門学校の6号階段教室。
空席は一つもない。学生たちはとうから静かに席について待っている。果たして、ベルが鳴るや、藤野先生が教室の入り口に現れた。今日はテキストや教材の図以外に、助手に一つの丁寧な造りの木製の箱を運んでこさせていた。
学生たちはそれぞれに首を伸ばして、藤野先生が何か生き生きとした形の、図も説明も見事な新しい教材を見せてくれるのではないかと期待した……。
周樹人はいつものように真ん中の前から5列めの右寄りの席で、全神経を集中して西洋医学の新しさと奥深さに期待を寄せた。
藤野先生は学生たちの好奇心にはやる思いを知ってか、わざと謎めいた微笑みを見せて:“皆さん、今日の授業は、骨董鑑定の授業ともいえるでしょう……”
“わー!”と、学生たちはこらえきれずに興奮し始めた。
“皆さん御覧なさい”と藤野先生はその丁寧な造りの木の箱を指さして、さらに謎をかけるように“中にどんな骨董品が入っていると思いますか?”と尋ねた。
学生たちは大いに盛り上がって、先を争って手を上げ、答えようとした。
藤野先生は民主的な人物なので、“思った通りに言ってごらんなさい、間違っても構いませんよ!”と促す。
ある者が:“医療器材ですか?”と言うと、先生は首を横に振る。
またある者が:“幻灯映写機か?”と尋ねると、先生は眉をひそめた。
少しして、先生は仕方なく:“やれやれ、それらは骨董とは言えませんよ!”
“人体標本?”周樹人が手を挙げてこう叫ぶと、藤野先生は目をきらりと輝かせて:“どの部分かね?”と尋ねる。
周樹人が頭を搔いて:“ええと……それは分かりません”と言うと、学生たちは笑いが止まらない。ある者は人の不幸を喜び、ある者は軽蔑しているのだ。
“静粛に!”藤野先生はすぐに数歩歩いてきて、またも周樹人の前に立った。そして、学生たちに向って、“周君は、皆と違うね、思い切って辮髪を切っただけあって、杓子定規な制度を恐れないのだね。今日も、彼だけが先ほどの課題に答えられた。”と言い、立つ方向を変えて、教室の隅々の学生に向けてたしなめるように言った。“まだ具体的に正確に答えたわけではないものの、木箱の中は確かに「人、体、標、本」です――”学生たちは驚いてため息をつく。藤野先生はそっと周樹人の肩に手を置いて、ゆったりと着席を促した。
藤野先生は講壇に戻り、続けて言う。“では、具体的にはどの部分の標本でしょうか?” と言いながら木箱を開け、人体の四肢の骨格を取り出して、高く掲げて皆に見せた。そして、ゆっくりと示唆しながら:“これは人類の四肢の骨格です。さあ、皆さん、言い当ててごらんなさい。いったいこれは左腕でしょうか、右腕でしょうか?”と尋ねる。
学生たちは興味津々で、われ先に答える。
“左の腕の骨!”
“いや、右腕の骨だ……”
元気よく先を争って発せられる回答に、藤野先生はひたすら首を横に振っている。間違えた学生はどうしていいかわからず、茫然自失となる。
この時、周樹人はまたサッと手を挙げた。
“周君、君は何を言いたいのかね?”
“先生、間違えたらまた笑われてしまいます……”
“気にせず、言ってごらん。私は笑わないから、恐れることはないよ!”
“ありがとうございます、先生!私は、左腕でもなく、右腕でもなく、脛の骨だと思います!”
“どうしてかね?”藤野先生のガラスの眼鏡レンズの奥で二つの目が大きく見開かれた。
“先生は「四肢の骨格」という前提のもとに尋ねられました。左右の腕の骨が皆違うということから推測して、残った答えは脛の骨しかありません。”周樹人は落ち着き払ってこう答えた。
“……”教室は一時しんと静まり返って、物音ひとつなくなった。
“そう、その通りだ!”藤野先生は興奮気味に叫んだ。そして、“実に嬉しい。おかげで私の教授法が成功したよ!教師として、私藤野嚴九郎は心から君に感謝するよ”と言って周樹人の両手を握った。
ぱちぱち……! 6号階段教室に、にわかに若者の純粋で素直な称賛の拍手が響きわたった。

(六)

  原稿用紙の上を毛筆がさらさらと文字を綴る。机の電気スタンドの明かりがその字と行間を照らし、真っ黒な墨の跡がかすかに光っている。
(魯迅の独白)“藤野先生のおっしゃる教授法とは、まさにあの新しい工夫を凝らして「わざと、混乱させ」「意図的に導く」というやり方だ。……あの時私は、図らずも、先生の科学的心理実験を成功裏に検証することになり、学校にとっては「啓発的教授」の先駆けとなった。しかし、私の目と心に藤野先生のさらなる偉大さが残るのは……また別の出来事が原因なのだ。 それは、あれから間もないころに行われた解剖の授業だった――”
仙台医学専門学校「解剖教室」。
純白のシーツがかけられた手術台の周りには、白衣と白い帽子と白いマスクを着けた学生と教師が集まっている。その中の一人である金縁眼鏡の藤野先生は、どのようにして「無菌概念法」によって薄いゴム手袋をはめるかを教えているところだった……。
「無菌概念法」の操作方式は、どこか魔術師が奥義を披露するかのような手つきで、優雅で謎めいている。そのため学生たちは互いにそれを指摘し合って、時折マスクの下から“ふふふ”という笑い声を漏らす。すると思いがけなく、藤野先生が素早く顔を挙げて、眼鏡の奥から厳しい視線を送り、学生たちのふざけた言動を制止した。
この時、医学校職員が、白い布に覆われた解剖用検体を運んでくるのが見えた。学生たちは慌てて道を開けると、息をひそめて検体が手術台に安置されるのを静かに見守った。藤野先生が一歩前へ出て検体に近づき、両手を広げて学生たちにもっと前へ出るよう呼びかけ、大きな声で:“諸君――これは何かね?”と尋ねた。
ある者が小さな声で:“――解剖用のし、死体!”
“違います!”藤野先生は押し殺したような声で、訂正する:“この方はかつて患者さんでした。しかも、若い女性の患者さんでした……”
“ああ――”軽く驚きの声を上げる者があった。
“ああ、ああとはなんだ?”と藤野先生は続けて、“医者が向き合うのはいつも、生きている患者であり、手術台に横たわるのはただ必ず救わなければならない命だけだ。だから当然ながら、全ての生命に対して敬意を表さなければなりません……わかりますか? 敬意です!”
“わかりました!生命に敬意を表します!”学生たちは声をそろえて言った。
“よろしい! では、私が手本を示すから、見ていなさい……”藤野先生は中央に四角い穴が開いた手術用の布を女性の体を巧みに隠しながら元の布と取り換えた。そしてすぐさま、一つ一つ手順を踏んで、消毒を施し、メスを入れ、血管を挟み、内臓を切り取り……それと同時につぶやくように要領を解説した。
周樹人の濃い眉の下の瞳は輝き、マスクの下の鼻翼がひくひくと動いた……(魯迅の独白)“藤野先生の厳粛で真摯な教えから、私は生命を尊重する精神に誇りを覚えた。また、先生が特に注意して遺体の局部を避けられたのを見て、人格を重んじる偉大な人柄を感じた……”
“周君!ここへ来て御覧なさい――”藤野先生はこの時、遺体の足のそばに立って、すらりと並んだ細い足の指を指しながら、向きを変えて見に来た周樹人に:“御覧なさい。人の足の指の骨は成長に従って形成されるものなのだが、一旦縛られて長くそのままにすると、その痛みから抜け出すことができなくなるのだよ!”と言う。
“では、どうすればいいのでしょうか?”周樹人が思わず問う。
“根本から解決するしかない――纏足の廃止だ!”藤野先生の言葉は力強く響いた。
この瞬間、周樹人の瞼に母のふらふらとよろめきながら小股で歩く姿や、女たちが恥じるようにきまり悪そうに歩く往来の情景が浮かんだ。そして涙をこらえ、心の中で叫んだ:“纏足を廃止し、愚かで無知な行為を排斥し、封建制度を打ち破るほかはない! まさに藤野先生のおっしゃる通りです。これはわたしたち中国人自身こそが言うべきことです!”

(七)

  山々や野辺一面に火のように燃える紅葉が、一陣の強風に吹かれてざわざわと音を立てる。目の前の木々の枝が揺れて赤い波がうねるように見える……
仙台の郊外、楓の林の中に古い街並みの低い建物が見え隠れする。藤野先生と周樹人が肩を並べて、雑草もまばらな石だたみの道を散策している。
藤野先生:“早いものだね、あっという間に寒い季節になった。仙台は東北地方だから寒くなるのも早い……”と言いながら横を向いて傍らの学生を見ると、薄着なので、手を伸ばして触りながら: “君、着る者が足りないのでは?”と聞く。
周樹人:“お気遣いありがとうございます。若いから大丈夫です。”
藤野先生:“おお……このあたりの古代武士は、戦いに明け暮れて、奔放に暮らしていたようだ。秋冬には、よく温泉に浸かって暖を取り、養生していたというが、それもなかなか楽しそうだね。”
“温泉? 聞いたことがあります――、とても気持ちがいいと。”周樹人はあこがれるように言う。
“そうだよ!よし、今回の期末試験で君の「倫理」の試験、とても成績が良かった、知ってるかい、倫理は医学の基礎なのだよ……”
“あ、私は何点だったんですか?”
“八十三点、クラスで一番だよ。今日はそのご褒美を上げなきゃならんな、一緒に温泉へ行こう!”
“わあ! すごい、先生、ありがとうございます!”
“それより、君はなぜ倫理がそんなにできるのかね?”
“私は小さいころから私塾に通い、孔子、老子、孟子、韓非子を頭に叩き込まれたんです。ですから、仙台に来ても、倫理は一番楽な授業です……はは!”
“おお、なるほど、そうでしたか、道理で君の古文と書は驚くほど優れているはずだ、それに、あの四肢の骨格を答えられたのも頷けるね、はは!”
“お恥ずかしいです。学んだことは知ってはいますが、まだまだ知らないことだらけです……”
二人は話しながら歩いているうちに、ふと見上げると《仙池神湯》という温泉の看板を見つけた。藤野先生がいそいそと入っていくと、周樹人も嬉しそうに続いた。

露天の温泉は、四方を山に囲まれている。
屋外の冷たい空気のせいで、温かい水面に幻のように乳白色の湯気が浮かび上がる。
藤野先生は湯気の中で湯につかり、頭だけを出している。湿った白いタオルを頭のてっぺんに乗せ、湯なのか汗なのか顔に滴るままに任せて、満足気な様子だ。突然、湯気で曇った眼鏡をはずして、目を細めて周りを見回し……
“周君、周君――、どこにいるのかね?”
“先生! 先生の向かい側のそう遠くないところにいますよ。ここの湯はあまり熱くないです。”
藤野先生は曇りをふき取った眼鏡をかけると:“さあ、さあ!こっちへ来なさい。私のこのあたりが泉源だ、湯は熱いが、効能も更にいいから。”
周樹人は先生のお許しを得たので、近づいてきて:“先生、温泉はなかなかこだわりがあるものなんですね。あそこの壁に「五五八健康法」と書いてありますが、どういう意味ですか?”
藤野先生は驚き喜んで:“よお、君はなかなか勉強熱心ですね。あれは温泉で入浴するときの時間と順序で、まず五分浸かってから、頭を洗い、また五分浸かってから、身体を洗い、その後八分浸かったら出てもいいということだ。温泉へ来て休暇を過ごすときは、こうやって繰り返し浸かるのだよ。まあ、科学的温泉入浴法と言ったところかな。”
周樹人はちょっと考えて:“では……それではどの人もみな同じなのですか?”
藤野先生は顔を挙げると:“うん、君は面白い質問をするね。――それは条件の違いに応じて変わってくるはずだね。例えば、温泉の違い、年齢の違いによって合理的に調整してこそ、科学的と言えるからね。あっと! ほら、もう時間だよ、頭を洗わなくちゃ……はは!”
“はは……!”先生と生徒は打ち解け合って愉快に笑う。

(八)

  汽笛が長く鳴り響き、白い蒸気が天を衝いて立ち上る。
動き出した汽車が、ゆっくりと“仙台駅”を出発する。周樹人は車両の中の窓際の席に掛けて、窓の外で次第に加速して遠のいていく木々を眺めている……
(魯迅の独白)“あっという間に冬休みになった。私はしばらく仙台を離れ、大多数が東京にいる清国留学生たちと共に正月を過ごすのだ。それに、もう知っていたことだが、私の弟周作人も、日本へ留学していて、東京で私を待っているのだ!”

汽車が高速で走るリズムと、時折けたたましく鳴り響く汽笛はいつしか、子供たちが互いに追いかけてふざけ合う楽しそうな歓声に変わる――
子ども時代の周家の三兄弟が紹興東昌坊口で遊んでいる。纏足の母がぎこちなく世話を焼いている。
兄弟三人がおばあさんの家“皇甫荘”の川で釣り糸を垂れ、なかよしの農家の子供たちがやり方を教える。
周樹人と周作人が私塾の年取った先生の前で頭を振り振り古文を暗唱している……

汽車のスピードが次第に緩み、“東京駅”の標識がはっきり見えてくる。ホームの一角に黒い制服の学生がひしめいている。特に目を引くのは学生帽のてっぺんが皆高く盛り上がっていることで、一目で清国留学生だとわかる(彼等の帽子の下にはぐるぐる巻いた辮髪が隠されているのだ)。そんな中、ただ一人他とは違って平らな帽子を被っている者がいる。しかも、その顔立ちは周樹人にそっくりなのだ。
遅れてきた許寿裳は大急ぎで、ホームに集まっている留学生の群れに向って走って行ったが、この周樹人そっくりな青年にはっとして、力ずくで人込みを押し分けて近づいて行く。どんどん近づき、話しかけしようとするが躊躇する……
“失礼ですが、誰をお探しですか?”周作人は上品な口調で尋ねた。
“ああ、私は周樹人さんを迎えに来たのですが、遅れてしまいました、申し訳ない!”許寿裳は申し訳なさそうに言う。
周作人はすぐに興奮して:“あ!周樹人はわたしの兄です。わざわざ迎えに来てくださってありがとうございます……見てください!来ましたよ――”

汽車の車両から降りたばかりの周樹人は、すぐさまやってきた留学生たちに囲まれてしまった。
周樹人は“やあ!なにもこんなに大げさにしなくても”と申し訳なく感じて戸惑う。
“豫才君よ、君が仙台ですらすらと問題に答えたと聞いてみんな誇りに感じているんだよ!”許寿裳はそう言いながら、すぐに後ろにいる周作人を“ほら、来ましたよ”と前へ押し出す。
“兄さん!会いたかったよ!”周作人の口から懐かしい紹興訛りが飛び出した。
“やあやあ、皆さんこんにちは!”周樹人と留学生たちの歓声や笑い声は、汽車の汽笛にかき消された。みんな手に手を取って歩き出し、徐々に駅の出口へと移った。

清国留学生の一団が大通りを足並みをそろえて歩いている。
先頭の三人は、周樹人とその片手に引かれた弟周作人ともう一方の手に引かれた親友許寿裳で、皆を率いて胸を張って闊歩している。
“ところで、僕たちはこれからどこへ行くんだ?”周樹人はふと気づいてこう尋ねた。
“今日は、留学生会館で会合があって、孫文先生を歓迎する講演会があるんだ!”許寿裳は非常に興奮して答える。
“孫文?日本に亡命した孫中山先生と言えば、並外れた度胸と見識の持ち主!”周作人も敬服の意を示す。
“それなら、急がなければ、絶対遅刻できない!”周樹人はすぐさま歩調を速めて前進し、帽子を取って振り回し、後ろの者たちを促す。
後ろの列の清国留学生はほとんどてっぺんが高く盛り上がった帽子を被っていて、その様子が滑稽なので、しばしば通りすがりの人に振り返って見られたり、失笑を買ったりする。

(九)

  東京留学生会館。清国の学徒が列をなして入っていく。
会館の入り口から少し離れた街角に、日本の遊び人風に装った二人の密偵が、行ったり来たりして、周りに目を配っている……

広々とした応接広間には、学生帽を被った清国留学生がひしめき合い、三々五々グループになって小声で話し合っている。
中国服の秋瑾はいかにも江南名家の令嬢といった風情で学生の中で特に目を引く存在だ。彼女の周りには陳天華、許寿裳と周兄弟她が立っていて、互いに挨拶を交わしている。
秋瑾が周兄弟に親し気に問いかける:“豫才さん、あなたはずっと仙台で医学を学んでおられますが、この度弟さんは初めていらしたばかり、どんなお世話をして差し上げるべきでしょうか?”
周樹人は弟を指さし笑って答える:“なあに!こいつはね、毎日何か読むべき良書さえあれば、他のことはとんと気にしないんですよ!”
許寿裳は鼻に皺を寄せて:“僕にいわせりゃ、本の虫という点においては、兄も弟も似たようなもので、どちらがどちらの世話を焼くんだか? はは……”と言う。
“孫文先生ご到着――!”入口の方から大声でこう叫ぶのが聞こえた。
皆が期待の目を向けると、孫中山が晴れやかな笑顔で大広間に入って来るのが見える。その左右には屈強そうな大男が控え、用心深く前後を警護している。
留学生たちは歓声を上げて駆け寄っていき、孫文先生とお付きの人たちを広間の中心の講壇に案内し……後ろの扉がしっかりと閉じられた。
正門の外では二人の密偵が、ひとしきりひそひそと言葉を交わす。一人はさっと駆け出してどこかへ行ってしまい、もう一人はもとの場所にとどまってゆっくり行ったり来たりしている。 行ったり来たりしている男が突然足を止めて耳をそばだてる。どうやらかすかに聞こえる拍手の音が聞こえたようだ……会館の周りの通りは、人と車が往来し、いつもと変わらない様子だ。

正門の中は、熱気に沸き返っている。
次々に沸き起こる拍手がしばし収まると、孫中山は大きな声で:“同胞の皆さん!我々は皆炎帝と黄帝の子孫ですから、わたくし孫文、率直に申し上げます――、ご覧の通り私のそばには二人の護衛がいます。これは致し方ないことなのです。 清朝政府は総力を尽くし、至る所で私を逮捕しようとし、甚だしきに至っては刺客を遣わして暗殺しようとしています……しかし、私は千万の同胞と共に自由と民主を勝ち取るため、万一に備え、力を蓄えざるを得ません。同胞の皆さん!学生の皆さん! 良心に誓って、同意していただけますか?”
“その通り!!!”満場の観衆は叫び声と拍手で応えた。この様子を見て孫中山が二人の護衛にちょっと目配せをすると:一人はすぐに正門の外へと向かい、一人は少し後ろに下がったところに留まった。
孫中山は続けて:“皆さん、ありがとうございます! ですから私は名を「中山」と改め、日本の社会に入り、日本の規範に合わせて行動しています。それはまさにここにお集まりの多くの学生の皆さんが、祖国に報いるため一心に海外に学んでおられるのと同じです。しかし――しかしながら、清国は腐敗にまみれていく一方で、国土は破壊されています。私たちは今の状況に甘んじておられましょうか? いや――、決してそうではありません! わたしたちこそ海外に身を置く自由を活かし、団結し、力を合わせ、人々に呼びかけなければなりません――” 孫中山は少し間をおいて、周りを見回すと、声を高くして叫ぶ:“帝王のを追い払って中華を取り戻せ!”
“帝王を追い払って中華を取り戻せ!”皆の感情が高まる中、数人の学生はその場で帽子を脱ぎ、長い辮髪を下ろして、慟哭して思いを訴えた……。ある者は思い切ってこう叫ぶ:“こんな豚のしっぽは切ってしまえ――”“こんな邪魔者はいらない!”“誰かナイフを持っていないか?”
“帝王を追い払って中華を取り戻す”
秋瑾は、その様子を見て、即座に手提げから常に携帯している短刀を取り出し、辮髪を切ろうとしている学生に無言で手渡した。その一方で、会館の厨房の刃物まで持ち出され……辮髪を切る場面は大いに人々の士気を振るわせた。
“御覧なさい! 中山先生の演説はなんと魅力的なんでしょう――” 秋瑾はいたく感動して、周りを見回し、きっぱりと言い切った:“切られるべき辮髪は、とうとう皆自分から切ることになった!”
周樹人はそんな秋瑾にそっと言う:“よかった、私たち兄弟は早くから切っていたから、今日は気が楽です……” 周作人も嬉しそうに、そばでおどけた顔をした。
陳天華はと言えば、飛び跳ねるように会場を回ってやって来て、興奮冷めやらず:“愉快!愉快! こんな日が来るのをずっと待っていたんだ!”と叫んだ。

東京留学生会館の正門の外。外へ出て行った孫中山の護衛の一人は、即座に上着を裏返しに着て、帽子のつばを低く下ろすと、全く別人のように――やくざっぽく、煙草をくわえて、何食わぬ様子であの留守番役の密偵の前に歩いて行った。二人は互いに軽く挨拶を交わし、意気投合した様子だ。 どうもこの護衛、裏社会に通じているようで、なかなかのやり手らしい。
護衛は悠然と煙草をくわえてあらぬ方向へ行ってしまった……ところが本当は、回り道をして会館の裏門に行き、周りに人がいないのを用心深く見極めると、こっそり中へもぐりこんだ。

会館の中は相変わらず満場の人々の熱気が漲っていた。
“同胞の皆さん!”孫中山は再び朗々とよく通る声をあげて:“皆さんに嬉しい報告があります、長きにわたる宿願だった「中国同盟会日本関東支部」が本日正式に成立しました。皆さんの参加を心より歓迎します……そうだ、我が同盟会の秋瑾女史! どうぞこちらへいらしてください!”と言うと、講壇の下で熱烈な拍手が沸き起こる。この時、とっくに合流していた二人の護衛は、人だかりを押し分けそろって中山先生の前にやってくると、素早く耳打ちして報告する。中山先生はしきりに頷いて、泰然自若としている。
秋瑾がゆっくりと進み出て、講壇に上ろうとすると、孫中山が手を差し伸べて迎え、講壇に引き上げる。二人は肩を並べ、軒昂たる気概に満ちた様子で満場の観衆に対面する。
孫文:“私孫中山がご紹介するまでもなく、この方が、かの有名な「鑑湖女侠」――秋瑾さんです。我が同盟会の偉大な誇りであるばかりでなく、中華女性解放の模範です。お集りの兄弟の皆さん、本日からこの秋瑾女仁侠のもとに入会してください!”
“万歳!”と誰かが大声をあげると、満場が応えた。
嵐のような拍手の中、秋瑾は一歩前に出て、抱拳(片手の拳をもう一方の手で包む形の礼)の礼をすると、講壇の下はにわかに静かになる。秋瑾は厳粛な面持ちで、朗々とした声で詩を一首吟じる。
祖国沈淪感不禁 祖国の沈淪に感ずるを禁じえず
閑来海外尋知音 閑来(かんらい)海外に知音を尋ねる
金瓯己欠終須補 金甌(きんおう)(祖国)己(すで)に欠け終(つい)に須(すべか)らく補(おぎな)うべし
為国犠牲敢惜身 国の為の犠牲敢(あ)えて身を惜しまんや
講壇の下はしんと静まり返り思索している。皆、しみじみと詩句の意味を味わっている。間を置くことなく、秋瑾は深い思いをこめて:“お集りの炎帝・黄帝の子孫である学徒の皆さん、辮髪があろうとなかろうと、男であろうと女であろうと、同盟会には皆さんの席が用意されています。国辱を雪ぐか否かは、我々時代の英雄にかかっているのです!”
“いいぞ!いいぞ!いいぞ!”拍手が沸き起こり、群衆は熱狂した。
孫中山は満面の笑みを秋瑾に向け、遠くの観衆に向けて高々と手を挙げると、“OK!”の合図を示し……陳天華の先導のもと、護衛に前後を守られつつ、会館の裏口に移動し、無事に退場した。

(十)

  日本神奈川県の“箱根”温泉。冬場は格別な賑わいだ。
“芦ノ湖”は古来の火口湖で、周囲を山で囲まれた鏡のような湖である。好天に恵まれると、遠くの“富士山”が湖面に映り込む。
「白扇倒懸東海天(白扇倒(さかしま)に懸かる東海天)」と詠まれる姿は、比類なき詩情あふれる絶景である。
真っ白な雪化粧をした山々を背景に、旅館が軒を並べ、門前は市場のような賑やかさである。厚手の和服を着こんだり、綿入れの肩掛けを羽織った男女の客が、盛んに行き来して、石段を上り下りしている。客の中には若い学生も少なくない。冬休みを利用して温泉へ来て、ひとときの息抜きを楽しもうというのだ。
《天成名湯》という温泉旅館の看板の下は、引きも切らず客が詰め掛け、楽しそうな話し声が絶えない。学生服の客が三々五々連れ立って店に入って行くかと思えば、散歩に出かける男女は色とりどりの思い思いの普段着に着替えている。

十数名の清国留学生が、喜び勇んで“天成名湯”旅館に入ってきた。
陳天華をはじめとする幹事たちは旅館の帳場で宿泊手続きを取りながら、振り返っては仲間たちに部屋番号を伝えている。
“許寿裳は僕と同室、202番だ。”
“周樹人と周作人兄弟は201番。”
“その他は僕の右側、203から順に部屋に入ってください。”
陳天華は手にした部屋の鍵の束をカチャカチャとさせて、楽しそうな大声で“僕について来て――!”と叫ぶ。
“よし、よし。道中疲れたから、温泉に浸かるとしよう!”皆は歓声を上げてそれぞれに陳天華の後に続いた……
尾根を一筋隔てた東向きの傾斜地に、初雪でところどころ白く飾られた常緑樹に囲まれた豪華な温泉迎賓館が建っている。
立派で堂々たる《風月館》門下の庭園は実に広々としている。数十の大型人力車が、次々と入ってくるが、降りてくるのは清国の官僚と随行員だ。同伴してきた日本政府の外務省の役人たちは、前後で手際よく世話をしている。
少し離れた木陰に、数名私服の係員が立っている。そのうちの二人は、東京留学生会館の集会でも、会館の外に現れた密偵だ。その人影は温泉の柔らかな風情をにわかに硬直させ、賓客をもてなす雰囲気には馴染まない。
日清両国の役人たちは相次いで広々とした明るい応接間に入り、主客がそれぞれ席に着いた。礼儀が尽くされ、こまごました作法やしきたりには一点の手落ちもない……。
一人の清国官僚は、ほっそりとした面長で、首にかけた“朝珠(清代、五品以上の官吏の首に付けた珊瑚や瑪瑙や琥珀でできたひとつなぎの玉)”も特別に長く、左右の官僚に比べても、高い官位であることがわかる。この官僚が感慨深げに発言する:“いやはや!この度幸いにも帰国を訪れ、このような歓待を受け、感慨無量でございます。これで、もし我が国の留学生が本分を越え、反乱を企みさえしなければ貴国もわが国も共に無駄な時間を費やすこともありませんのに。このようなゆったりと静かな保養地で、琴・囲碁・書・画などの話題に勤(いそ)しめますものを――”
日本の役人は、すぐにその意味をくみ取り、“わかっております、わかっております! 貴国の留学生取り締まりの一件、大筋で話し合いがついております。あとは合意書を調印するだけです。ですから、本日は琴・囲碁・書・画を語り合い、美しい自然を楽しみましょう……はは!”
側近がその意を了解し、手を打って合図すると、屏風の後ろからたちまち芸者たちが現れる。あっという間に、清国の官僚たちの眼前で、華やかに着飾った女たちの、歌や踊りが繰り広げられた――

(十一)

  “天成名湯”の客間の廊下では、とっくに日本式の浴衣に着替えた清国留学生たちが、お互いの部屋を行ったり来たりして、頻繁に足音を立てていた。
203号室では、周樹人と周作人兄弟が向かい合って座っている。二人の間の畳に置かれた座卓の上にはいっぱいに原稿が積まれている。
周樹人:“君は本領を発揮して、《域外小説集》の翻訳を急いで進めてくれ給えよ!”
周作人:“兄さん、安心してください。鋭意努力しますから。温泉に浸かる暇も惜しんで……”
周樹人は慌てて:“いや! 温泉は温泉、よくよく楽しみなさい、そのうえで文章もうまく仕上げなさい。近頃の世相を見るにつけ、海外の新しい風を借りて、国民の視野を開く必要がある。このように内外が融合すれば、広々とした天地が広がるのだから!”
周作人は心から承服して:“兄さんの言うとおりだ!ただ、出版の手続きが煩雑で、経費にも限りがあるからなあ……”と答える。
“感心だね!君たち兄弟は、どうしてそんなに勉強熱心なんだ?”陳天華が戸を開けて入ってくると、大声で“冬休みで来ているんだ、先ずは温泉に入ろう!” 後ろについて来た許寿裳やその他の留学生も続いて入って来て小さな部屋がいっぱいになった。
許寿裳も大いに興奮した様子で:“そうとも!温泉に浸かれば、みんな裸の付き合いだ、まさに「肝胆相照らす」ってやつさ…はは!”
“行こう!行こう――”愉快な気持ちで一つとなった学生たちは、押し合いへし合い部屋を飛び出し、廊下を走っていく。トントントンという足音が庭にも届くほどだ。
笑い声や人影、輝く瞳が温泉の乳白色の湯気に溶けていく……

明かりが光輝く迎賓温泉“風月館”。
優雅な客間に軽やかで滑らかな音楽が流れ、芸者が軽やかに舞を舞っている。
清国のあの、細面の官僚は、すでに官服を脱ぎ、朝珠も外し、日本式の膳の前に胡坐をかき、顔を真っ赤にして酔態を露にし、酒の相手をする女を無造作に抱き寄せて、はははと大笑いしている。
隣の席の日本側の役人は、職務を忠実に守り、一方で側近に料理と酒を出すよう命じ、また一方では《留学生取り締まりに関する会談紀要》を細面の官僚に手渡す――

ほろ酔い気分の細面の官僚は、気分絶好調とみえて大声で叫ぶ“筆を持て!”側近が命令に応じて駆け付けるや、官僚は鮮やかな筆遣いで署名した。
“乾杯!”在席の誰もが歓喜の声をあげ、その声が広野に響き渡った……

(十二)

  一つ山を隔てた“天成名湯”の露天風呂は湯気に包まれている。
清国の留学生たちは温かい湯に浸かって、全身の血液が滑らかに流れる心地よさを満喫している。
“雪が降ってきたぞ!”と誰かが嬉しそうに叫ぶ。皆舞い落ちる雪を見上げ、興味津々で雪が温泉に舞い落ちるや瞬時に消えるのを見届ける……。“雪は実に美しい、ただ実に儚い!”誰ともなく感嘆の声が漏れる。
周樹人は温泉に浸かりながら、身体をずらすと、天を仰いで“道理で、《紅楼夢》の中で、林黛玉がこんな名句を読んだわけだ:質本潔来還潔去(質(しつ)本(もと)より潔(きよ)く来れば還るも潔く去らん)――”

“不教汚淖陥渠溝(淖(どろ)に汚れ渠(きょ)溝(こう)に陥ることなからん)。良い詩だね!”周作人は湯に暖まっていささかうっとりとしている。
“ああ――”陳天華が長い溜息をついて:“近頃の男子は女子に及ばない!”
周樹人はその言葉を聞きつけて、そっと尋ねる:“天華さん、それはどういう意味ですか?”
陳天華は頭を横に振って溜息をつき、憤懣やるかたない様子で:“聞くところによると、清国の官僚もここ箱根に来ていて、酒色におぼれ、ふしだらの限りを尽くしているらしいのだ……” そばにいた許寿裳はそれを聞くと、警戒してあたりをきょろきょろ見回し始めた。
“政府の腐敗した現状はともかく、その醜態を国外で晒したとすると、よからぬ結果を生み出しかねない!”周樹人は危機感に神経をとがらせる。
“あ……”許寿裳が驚きの声をあげる。
“どうしたんだ?”陳天華は話の腰を折られて、少し気を悪くした。
“振り向いて見てみろよ。あれは……男女混浴じゃないか!”許寿裳は恥ずかしそうにある方向を指さす。
それを聞いて、多くの留学生たちがバシャバシャとやって来て取り囲み、許寿裳の指さす方向を、恥ずかしがりながらも興味深げに見やった。
“みんな、よそうよそう!”と陳天華、“男女混浴なんて日本では珍しくない。僕たちが、大げさに騒いだら、それこそ……軽く見られてしまうぞ――”
“そうともさ、妖怪に出会っても怖がらなければ妖怪も消えるってことさ!”と、許寿裳は成り行き任せに弁解して“実際のところ、男女混浴なんて大したことじゃない、へへ……”
“じゃあさっきは何であんなに騒いだんだ?”ある者は不満そうに言う。
“それで今は聖人君子かい?”ある者は馬鹿にする。
周樹人と周作人は顔を見合わせて苦笑いし、黙って首を横に振って溜息をもらした……

(十三)

  日本静岡県の景勝地“熱海”。
この地には珍しい温泉がある。海底から沸き立った温泉が海面に現れている。海底温泉とも言うべきで、そのため“熱海”と呼ばれている。
この時、孫文先生はここ“熱海”温泉で、経絡をほぐし、疲労を癒していた。頻繁な力強い演説活動に加え、追っ手を避けての連日の移動で極度に疲労していたのだ。 転戦を重ね、やっとこのたびの旅程の起点であり根拠地でありまた終着点でもあるこの地にたどり着いた。明日、彼は遠く南洋に赴き、資金を集め、“帝王を追い払って中華を取り戻す”ために民主革命の武装を整えるのだ。
寒い冬が訪れ、この海辺の景勝地を訪れる人は少なく、孫文はいくらか気を緩めることができた。ただ、冷たさと熱さが隣り合う海水に身を置き、あたかも相容れない氷と火の戦いにも似た過酷な闘争を体験しているかのようでもあった……
孫文が湯に浸かっている海域にはいくつかの高さの異なる岩礁が立っている。左右の岩礁の頂には二人の護衛が、それぞれ釣り糸を垂れている。 その様子は、悠然としているが、実は周囲にくまなく目を配り、どんな物音も聞き落とさないのだ!

会場の温泉からそれほど遠くない浜辺の歩道はこじんまりとした公園に続いている。常緑樹の灌木がきちんと剪定されていて、緑の帯が壁際の手洗い場や更衣室に続いているようで、温泉利用客にはとても都合がよい。
その緑の帯に沿って、木製のベンチが置かれている。海を臨む端に置かれたベンチに、二人のモダンな装いの婦人が端座している。一人は東洋的な服装の見るからに懐の深そうな女性、秋瑾、もう一人は西洋的な装いで、フランス風の礼帽にアメリカ風のドレスがぴったりと調和している。この人は宋慶齢嬢――孫文の終身の伴侶であり秘書である。二人のそばには革製の小さな旅行カバンが置かれている。
宋慶齢は、思いやりに満ちた口調で:“秋さん、中山先生から聞きました。あなたの二人のお子さんは北京にいらっしゃるそうですね。恋しいでしょう?”
“恋しいわ、子供を思わない母親がどこにいるでしょう?”この時の秋瑾は母親の顔だ:“暑くなると思い、寒くなればまた思い、正月が近づくとさらに思いが募ります……男の子と女の子、二人ともいい子です!”
“日本に呼び寄せないのですか?中山先生が言っています。一旦武装革命が勃発したら、北京は必ず戦場になります!”

秋瑾は眉をひそめて考え込んで:“ええ……子供たちはまだ小さいので、何とかして紹興の実家へ連れて行ったらどうかと?”
宋慶齢は頷いて:“それもいいかもしれませんね。情勢の進展を見てまた考えましょう。あなた、本当に立派だわ!”
秋瑾は笑って:“あなた、良い方ね、私のことばかり心配してくださるけど、忘れないで、中山先生はまだ海の中よ! さあ、迎えに行かなければ!”
宋慶齢は目を落として時計を見るや:“まあ大変!私ったら、死ななきゃ治らないうっかりだわ……”
“誰だって死んでいいものか、はは!”タオル地の浴衣を着た孫文が二人の前に前に突然現れ、片手で革の旅行カバンをつかんで護衛に渡し、さっき着いたばかりの車のドアを後ろ手で開けてにこやかに:“ご婦人方、どうぞ!”と言う。宋慶齢は秋瑾に先に乗るよう勧めると、振り返ってうっとりと孫文を見つめ:“あなた、寒くないの? 逸山(孫文の名)、天から降ってきたの?”
“そうさ、私はもともと医者だよ、医者と仙人は似たようなものだからね!”孫文は笑いながら宋慶齢と手を取り合って車に乗り込んだ。車はすぐに発車して海辺を離れ、迂回して遠くの山林へと向かった……

(十四)

  熱海の景勝地の山林にある簡素で広々とした中華料理店“宏図大飯店”。
店主は生粋の広東語を話す。洋装をきちんと着こなした孫文一行を上階の窓辺にある優雅な個室へ案内した。個室の窓からは迫る山と遥かな海が一望出来、人をうっとりさせる。
給仕がお茶を持ってくるが、店主はそれを遮って、自ら茶器をテーブルに置き、すぐに給仕と共に支度をしに階下へ向うが、その時、そっと個室の扉を閉めた。
孫文はその様子を見て、“個々の店主は丁というが、その名の通り釘(丁と釘は同音)のように信頼できる人物なんだよ”と言いながら、傍らの小さな革のカバンを開けて、タオル地の浴衣などの衣類の下から一束の書簡を取り出した。
“私と慶鈴は明日南洋へ募金に出かけ、武装の準備を始めます。これらの書簡は非常に重要です。璇卿さんに郵送をお願いします!”孫文は手にした書簡を丁重に秋瑾に手渡す。
“謹んで承ります!”と秋瑾は両手で受け取る。目を落として書簡に書かれた孫文直筆の宛先を注意深く見た。章太炎、黄興、宋教仁、胡漢民、蔡元培、陶成章――見ているうちに息遣いが激しくなっていくのを感じ、最後に徐錫麟の三文字を見たとき、すぐさま目を大きく見開いて、孫文をまっすぐに見つめた。
孫文は笑って:“どうですか、皆、同郷の方々の錚錚たるお名前でしょう?”
秋瑾は厳粛な面持ちで:“重任を仰せつかったからには、必ず使命を全うします!”というや即座に書簡を自分の手提げかばんにしまい込み、両手でしっかり押さえて離さない。
宋慶齢は微笑んで秋瑾の手の甲を優しく撫でて:“秋さん――”と声をかける。
孫文が “しっ――”と人さし指で唇を押さえる。果たして、“トン、トン”とノックの音。
給仕が大皿に盛った前菜を運んできて、テーブルの中央に置いて、テーブルを回す。見ると、色とりどりで、形も独特だ。主人の丁がいっぱいに酒を満たした錫の酒壺を提げてきて、テーブルの上に置き、興味深げに説明する:“中山先生も私も広東人ですから、食にはこだわりがあります。今日の最初の料理は広東の著名な料理「百・鳥・朝・鳳(百鳥鳳に謁見す)」です!”
“丁さん、実に気が利いていますね。この「百鳥朝鳳」正に私たちに向っていますよ!”孫文が言葉に謎をかけると、
“あら!この鳳の頭、ちょうど秋さんに向いているわ――”と慶鈴がズバリと言い当てる。
秋瑾ははっと気づいて、驚いて言う。:“わあ!私、恐れ多くてとても……”
“百鳥朝鳳(百鳥鳳に謁見す)、つまり衆望所帰(衆望の帰するところ)。さあ、乾杯しましょう!”孫文はテーブルの錫の酒壺を指して秋瑾に:“璇卿さん、この酒壺、古式ゆかしくてどこかあなたの故郷紹興の民芸品に似ていますね。”
“確かに、紹興ではよく見かけます。私の家にもあります。”秋瑾は誇らしく感じた。
孫文は顔を挙げて傍らの主人・丁に尋ねる:“丁さん、この酒壺には何の酒が入っているのかね?”
主人・丁は振り返って給仕がいるかいないか確かめて、にこにこと答える:“三十年物の状元紅です!”
“まあ! 紹興の名酒、工芸品の錫の壺、貴重品が一堂に会しましたね!”慶齢が感嘆する。
“ふん、惜しむべきは!”孫文が頭を横に振って:“状元という二文字には封建時代の科挙の意識が強くてそぐわないな。酒の名前、改められるものなら改めて、酒の香りだけを広めたいものだが”と言う。
“では、どう改めるのですか? 何千何百年と受け継がれた名酒ですよ!”慶齢がいぶかる。
“いいぞ!それがいい!”孫文は大いに啓発されたようで、“改めるには、その何千何百という根本から改めるのだよ、紹興の古代の名は越だから「古越」と呼べる!”
“そうだ!” 秋瑾も同意する。“古越と言えば龍山、酒の名前は「龍山古越」としては如何でしょうか?”
“妙案だ!”孫文はテーブルを叩いて絶賛し、続けてこう言った。“こうすれば、封建時代の科挙の色彩は消される。状元を改めて、我が子が龍になることを望む気持ちを当てはめる。紹興龍山の宝が代々受け継がれる!”
宋慶齢もすっかり感心して:“本当にうまく改まったわ、お祝いしなくちゃね!”
機転の利く主人・丁はすぐにそれぞれに酒を注ぐ。孫文が先ず立って盃を掲げ、小さいが力強い声で誓う:“同盟会が壮大な計画を展開し、盃の酒の香りが代々香り続けるように、乾杯――”
“乾杯!!!”その声は小さくとも、込められた意味は重く、雷の轟のように海と空を振るわせた……

(十五)

  “号外!号外! 清国留学生取締規則が本日発布されたよ!”
“騒動は必至!号外――、号外!”
東京留学生会館の外は、がやがやと騒ぐ声に包まれている、新聞売りの叫び声も周りの人々の喧騒にかき消された……。
(特殊撮影)「朝陽新聞」社説:無作法にして卑劣、団結力乏しい。
カメラが遠ざかると、陳天華など多くの中国人学生が、義憤を胸に、これ以上耐えられないとばかり、大声で騒ぎ、押し合いへし合いする姿が映し出される。
陳天華:“けしからん!無垢な学生をなぜ取り締まるんだ?”
一人の若い学生はすっかりしょげきった情けない様子で:“僕たちは日本に来たばかりなのに、取り締まられたらどうすればいいんだ?……”と言い、そばにいる若い女学生は泣きじゃくっている。
周樹人と周作人兄弟は人込みを掻きわけて進んでいくと新聞を取り上げてざっと目を通した。
“みんな!慌てないで、慌てないでください!”周樹人は冷静に言う:“日本語の「取締」と中国語の「取締」は意味が違います。新聞に載っている「取締」は監督し管理するという意味です……”
ある者は“我々は学問に邁進しているのに、何をもって監督するというのだ?”と言う。
またある者は“監督なら取り消すよりましだ。勉強は続けられるのだから!”と言う。
そして“東へ行けば監督され、西へ行けば管理されては、どんな学問をしろと言うんだ?”と言う者もある。
“誰が管理教育するのか?何を管理教育するのか?”
“管理教育を始めたら、きりがなくなるだろう。悪くすれば、何か罪名をでっちあげて、国外退去させられないとも限らない。それでも、中国語の取締とは違うというのか?”
“つまりだ、取締だろうが、管理教育だろうが、我々は受け入れられない!新聞社へ行って交渉すべきだ!”
“そうだ、それに政府とも交渉すべきだ! 勇気のある者、行くぞ!”
陳天華は率先して、数人を連れて外へ飛び出していった。許寿裳は、踏み出していこうとするが、周樹人に腕をつかまれて止められた。周作人もその肩を数回たたいて、頷いている……

「朝陽新聞」新聞社編集部の会議室。
長方形の会議机の片側に新聞社の編集長と政府機関の外務官が着席している。もう一方には清国留学生の代表陳天華たちが着席している。
“皆さん、ようこそ我が新聞社へいらっしゃいました!”新聞社の編集長ははじめは丁寧にあいさつしたが、話題が変わると、厳しい表情になり、“我が新聞社は政府の関係規則を掲載するのは、法律に則った行為であり、新聞社が果たすべき責務です。清国留学生の皆さんに何かお考えがあるなら、維新解明のこの時代ですから、我が国政府に直接訴えられたらよろしいでしょう――”
政府の外務官の頭目も、作り笑いで:“そうです、そうですとも!お話があるなら、ここでよく話せばいい。外であんなに騒がなければそれでいい。はは!”
陳天華は率直に意見を述べる。“なんと申したらよいか、取締の対象が我々留学生であるからには、私たちに対しても事の順序があって良いはずです。それなのに、あなた方は事前の連絡も相談もなく、突然新聞で所謂取締規則なるものを公表した。これによって私たちをどんな境地に置こうというのですか?”
外務官の頭目は、ごくりと唾を飲み込み、侮れない相手と気づいたのか、相変わらず笑顔で:“はは、誤解ですよ、誤解! 両国政府の間には、外交ルートがありまして、あなた方留学生の取締――ええと、この「取締」は貴国の漢字と同じですが、意味は違っていまして――つまりその「管轄」ですかな。政府間ではとっくに意思疎通しておりまして、協議も調印済みです!”と言いながら、そばにいた者に目配せをする。この役人は素早くその意を察し、携帯していた公文書鞄から“温泉会談紀要”の写しを取り出した。外務官の頭目は満足げにそれを受け取って、最終ページの署名捺印の目立つところを高々と掲げ、向かいの者たちにはっきり見せつけた。そして、まだ笑顔のまま、“申し訳ないですねえ、私たちの外務規律に基づいて、私は誠意を尽くしましたよ。ははは!”
向かいの席の陳天華は大いにからかわれたと感じ、不愉快な気持ちで、左右の学生代表に目配せしてそれぞれの考えを伺った。
“なんと、政府はとっくに通じ合って、協議も成立していたのか、我々など眼中になかったということか!”
“その通りだ、我々としては、道理を通さなければ……”
“そうだ!来たからには、言うべきことを言わなければ!”
“でも、上手くいくだろうか――?”
陳天華は自らの責任を果たそうと、交渉を持ちかける:“誠意ある対応を感謝します!しかし――”と言って手に持った新聞を叩いて大声で言う。“あなた方の言う取締規則によれば、我々留学生は全く身動きが取れません! 伺いますが、先ほど編集長がおっしゃられた「維新開明」はいったいどこにあるのですか?”
新聞社の編集長は唇を震わせながらも、懸命に冷静を装って“ふん、お若い方、それは違いますよ。この取締規則は清国政府が決定したものです、正確に言えば君たちのものです、わかりますか? 君たちのものですよ!”
陳天華は真っ青になり、両側の学生代表が小声でささやき合うのだけが聞こえた。“屁理屈だ、論理も何もない!”“自分の誤りを棚に上げて、なんて悪辣な了見だ!”
相手は記録用の筆を執り手元を見ながら“おやおや、交渉の場では、私語を慎んでくださいよ!”
外務官の頭目は、反対に寛容さを装ってはぐらかす。“構いませんよ、学生ですからね、まだ子供ですから……こうしませんか、貴国北京の言い方を借りれば「路は路に帰し、橋は橋に帰す」正規の道筋で事を運びましょう。 こうなったからには、我々としてもできる限り面倒を見ましょう。あなた方が自国の政府に交渉できるように。これで満足でしょう!”と言い終わると、席を立って、左右の者と顔を見合わせひそかに会心笑みを交わす。
陳天華は怒りで言葉を失い、学生の代表たちのがやがやは収まらない……

冬の日は薄暗い。吹く風に落ち葉が舞う。
「朝陽新聞」の正門の外には、清国留学生たちが絶えず集まってきている。
周樹人兄弟と許寿裳らは次々と駆け付けて、すっかり葉の落ちたアオギリの木のそばに立って仲間から情報を聞き出すなどして、新聞社の中で行われている交渉の状況に注目している……
人力車があわただしくやって来てアオギリの木の前に停まると、和服姿の秋瑾が下りてきて、落ち着いた様子であたりを見回す。周樹人たちは即座にその周りを囲み、次々と押し寄せる学生たちを遮った。
秋瑾:“このような状況には、どう対処すべきでしょうか?”
周樹人:“陳天華たちはまだ中で交渉しています。もうずいぶん経ちます!”
秋瑾:“無理な交渉をしても、良い結果は望めません。私の考えでは、ここは速やかに会館に戻り、時期を判断し情勢を推し量り、皆で知恵を出し合って、万全の策を立てなければなりません!”
周樹人:“その通りだ!新聞社の前で兵をあげて騒動を起こせば、相手に口実を与えることになる。”というや左右の者に呼びかけて“寿裳、早く行って女仁侠の言葉を伝えるんだ、皆で会館へ戻って相談しよう!作人、君はここで見張って、天華たちが出てきたらすぐこのことを伝え、一緒に会館へ戻ってくるんだ!”許寿裳と周作人はそれぞれ指図に従った。
秋瑾は安心して頼もし気に周樹人を見つめる……

(十六)

  新聞社の会議室の雰囲気は突然変わって、寒々とした空気に包まれた。
会議用の長い机に向って座っていた編集長や並んでいた外務官場医務官たちはいなくなり、孔雀の羽飾りの帽子を被った清国の官僚にとって代わられた。首にかけた朝珠は、長いもの短いものがあり、それによって官位の上下がわかる。真ん中の官僚の朝珠はとても長く、その顔も間延びしている……。
机の向かい側はと言えば、一人もいない? 椅子さえも消えてしまったのか?
カメラが引くと、これらの椅子がやっと見えるが、皆遠く壁際に寄せられていた。
椅子に掛けているのは皆先ほどの清国留学生だ。相手の地位が変わって、その差が広がったので、まるで審判を受ける立場に追いやられたように、留学生の代表たちも、さっきまでの勢いを失い、意気消沈としたり、びくびくと不安そうだったり、悔しさを隠しきれない様子である……
新聞社の編集長も机の端に移り、もう一方の端には眼鏡をかけた記録係が控えている。
編集長の椅子の向きはいささかぎこちない。礼儀上清国の官僚をまっすぐ見なければならないが、公務上は学生の代表にも向かい合わなければならない。したがって斜めに座って一挙両得を図るしかない。思わぬ結果として腰椎と頸椎に負担がかかる……要するに、ただきまりが悪いだけではなく、非常に疲れることになった!
“まずは、皆さまのご来社を感謝します!”編集長はそれでも礼儀を重んじる習性は忘れないのか、もっともらしくすらすらと述べ立てる。“本社は、数十年来初めて友好隣国の官僚と民衆がここにおいて自由と平等を共に分かち合う場面を証人として見届ける幸運に恵まれました。これは前例にないことであり、報道価値の高いことでございます……”
陳天華はこれ以上我慢できず、“編集長殿、我々のこの席は平等な位置ですか? それとも、審判を受ける位置ですか?” 清国の官僚たちは顔を見合わせ、意外な反応に驚く。
“それは……”編集長は一時言葉を失うが、意識的に首をひねってあの長い朝珠をまっすぐに見た。
“無礼者!”長い朝珠は大声で一喝すると、“本官がその方(ほう)を審問してどこが悪い!”と言う。
“罪もないのに、何を審問するというのですか?”陳天華はこの時すでに捨て身の覚悟だった!
長い朝珠の最高官僚は大声で笑い:“はははは……では本官が先ず聞くが、大清国が指名手配している重要犯人――孫文孫中山、その方との関係は?”この時、官僚の両の目は朝珠のように大きく見開かれ、まっすぐに天華をにらんだ。
陳天華は無理に平静を装い、反問する。“孫何某(なにがし)とは誰だ?私と何の関係があると?”
長い朝珠は一歩一歩追い詰める。“よろしい! どうも分かっていないようだな。 それならまた聞くが、某月某日、あの孫文がその方たちの留学生会館に潜り込み、気炎を吐いて、人心を惑わし、謀反を企てようとしたのに、その方はなぜそれを報告しなかったのだ?”
陳天華は防ぐに防ぎきれず“それは……”と口ごもる。
長い朝珠はいい気になって、“それは……なんだというのだ?学生の代表のくせに、関係ないとでも……?” 長い朝珠はもったいぶって口をとがらせたので、皆がどっと笑った。
陳天華は急場をしのごうと“では、何か証拠があるのですか?”とやり返す。
他の学生代表たちもこの機に乗じて応援した:“そうだ!証拠はどこに?”
長い朝珠が手をあげると、短い朝珠がすぐに脇の扉を開いて、二人の“遊び人風”密偵を招き入れた。陳天華は一目見て面識があると感じ、にわかに心が乱れた……
密偵の一人(甲)は、なんと流暢な北京語で“あっしはこの目で見ました。大清国の留学生会館で盛大な集会が行われたあの日、孫文が会館の正門から堂々と入って行くのを――”
もう一人の密偵(乙)はきょろきょろしながら“あっしははっきり見ました、あの日あの者が――”と、陳天華を指さして、“孫文について、にこやかに話しながら裏門からこっそり出て行った!”
“……”陳天華は無言で、顔色は紅潮から蒼白へと変わった。
“でたらめだ!あの日のそれはこの私だ――” 学生代表の一人がわが身の危険を顧みず叫ぶと、“私だ!”‟私だ!”‟私だ!”と学生代表たちが大声で騒ぎだした。長い朝珠は得意満面で、机をたたいて:‟無礼者!本官にはもとより道理があるのだ。大清国政府の外交ルートは四方八方に通じ、確固たる証拠があり、罪がある者は、逃げようなどと思うな! ふふん、一人も逃がさないぞ!”
陳天華は天を仰いて嘆く。‟ああ、天よ―― いわれなき罪が逃れられないとは、公理はいったいどこにあるのだ?”
長い朝珠は自信たっぷりで‟はは!公理はここにあるのだ。何も遠くへ探しに行くことはないだろう? 規律さえ守っていれば、何も嘆くことはない!”‟はははは……” 清国の官僚たちは互いに目配せしながら、いつまでも笑っている。
“行こう!”陳天華は矢で胸を撃ち抜かれたような心持で、袖を払って席を離れた、ぴったり後に続く学生代表たちも全員、憤りに息を弾ませ、憤怒の形相だ!

(十七)

  寒風が音を立てて吹きすさび、落葉が天を覆っている。
東京留学生会館。人々が忙しく行き来している。
こじんまりした会議室。秋瑾と周兄弟らが顔を寄せ合って小声で話している。
‟どうやら「留学生取締規則」は相当な勢いで迫っている。私たちはその切っ先を避け、後退を前進の手段としたほうがよさそうですね……” 秋瑾が深く考え込んで言う。
‟秋さん、後退を前進の手段にするとおっしゃるからには、何かお考えがおありなんでしょうね?”と周作人は待ちきれず探りを入れる。
‟その真意とは、後退を前進の手段とするとは、つまり「その人のやり方で、その人に仕返しする」!”周樹人が火を見るより明らかだとばかりに言い当てる。
秋瑾は大いに喜んで:‟はは! さすがは周兄弟、一言で私の本意を言い当ててくださった。――私の考えでは、この取締の風潮に乗じて、いっそのこと留学生全員帰国してしまうのです。一つには取り締まりの対象を失わせ、竹の籠で水を汲むような状態にするのです。二つには留学生の声なき抗議を通して団結の力を示すのです!お二人はどう思われますか?”
“うむ……そうすれば もぬけの殻となり、誰も口をつぐんでしまえば、当局にとっても打撃にはなります。しかしながら、それはまた敵を千人殺すために味方を八百失うのに似て、留学生が皆なすすべもなく帰国してしまったら、学業が中断され、荒廃につながります。そうなったら、どうして祖国に報いることができましょうか?ああ――”周樹人は思わずこう嘆いた。
‟うーん?!”秋瑾は太い眉をしかめる。“……他の人の身になって考えれば、一時的な喜びを求めてはならない。しかし正面切って対立するなら、当局の暴挙を許してはいけない!”
‟そのとおりだ!しかし、どうすれば両立できるだろうか?”周作人は考えあぐねる。

外が騒がしくなったと思うと、陳天華たちが力なくうなだれて留学生会館に帰って来て、直接会議室へ入ってき来た。
秋瑾と周樹人は彼らの表情を一目見ると、急いで飲み水を手渡し、席を進めてねぎらった。
‟何たる屈辱!何たる屈辱……” 陳天華は一気に一杯の水を飲み干すと、怒りが収まらない様子で:‟ああ!清の官僚たちは中国の同胞を蹂躙するだけでは飽き足らず、ここ海外までやって来て数多くの学生まで圧迫するとは……この悔しさ、やりきれない!”と言う。そばにいる学生たちも、しきりにため息をついては、大声で叫んだりしている。
秋瑾は慰めなだめるように:‟皆さん大変でしたね!胸につまった悔しい思い、吐きだせば少しはいいでしょう……”
‟どこに吐き出せばいいのか? 吐き出してどうなる?”陳天華はやるせない表情だ。
‟同胞の皆さん!悔しい思いは吐き出さなければなりません――” 秋瑾は足元の椅子に上り、皆に向い、決然と言う。‟しかも、行動で吐き出すのです!――我々留学生は全員帰国し、当局がどう取締るか見ようではありませんか?”
‟いいぞ!いいぞ!いい考えだ……” 皆興奮して、周囲から拍手が沸き起こる。
陳天華は突然奮い立って、一歩前に踏み出し、大きな声で訴える。‟同胞の皆さん! 秋女仁侠が僕の気持ちを代弁してくれて、や
っと心がすっきりした……当局がどうしても留学生を取締ろうと
いうなら、我々留学生はいっそのことこぞって帰国し、奴らがそれ
でも何を取締るか見てやろうではないか? みんな、そうじゃない
か?”
‟そうだ――!”
‟我々皆帰国しようではないか?”
‟いいぞ――!”
この時、窓際に立っていた周樹人と周作人は互いに顔を見合わせ、わずかに首を横に振った。
‟待ってくれ!少し待ってくれ――”遠くにいた少し年かさの留学生が声をあげた。厚いレンズの眼鏡をかけたこの学生は、両手で盛り上がった学生帽を整えながら、おどおどして言う。‟私の意見を、言ってもいいですか?”
陳天板はそのゆっくりした動作を見て、イライラする感情を押さえて答える。‟言いたいことがあったら、さっさと言いたまえ、集団行動を妨げないように!”
この年かさの留学生は勇気を奮ってこう言う。‟す、すみません!私は帰国して万一戻れず、学業を不意にしてしまったらどうしようかと心配なのです。”
‟全く!まるで老書生だ。不意になったらなったまでさ……”と、小声でつぶやく者がある。
‟老書生さんも、大変だからなあ!”と肩を持つものもある。
‟老書生さん、みんなの邪魔をしちゃいけないよ!”と、公平な判断を示そうとするものもある。
‟私の話を聞いてください!” 秋瑾が力強く高らかに‟中国の同胞の皆さん! 私たちがこのような方法で取締に対抗するのは、実に他に道がないからです。もし皆が心を合わせて協力しなければ、当局によって分裂させられてしまいます……そんな結果を誰が受け入れられましょうか?“と言い、学生たちが顔を見合わせたり、ひそひそ話をするのを見ると、即座に腰の刀を抜き、鞘ごと高々と掲げて、‟反対する者は、まずこの刀を受けなさい!”
‟ああ!”老書生は驚きのあまり、座り込んでしまった。学生帽が脱げ落ちて、長い辮髪が飛び出た。秋瑾はそれを見て、進み出て助け起こし、笑って声をかける。‟はは!あなたはまだ若いのに、様子が年よりじみているのね。驚いたわ。お怪我はない?”
‟いえいえ!“と、老書生は秋瑾が意外に穏やかなので、安心したようだ。‟実のところ、私は恐れるのは……その刀なんです!”
陳天華はさっきの皆の興奮がこの老書生に冷水を浴びせられ、すっかり気分を害していた。秋瑾が握っている刀の鞘からいきなり短刀を抜き取り、たちまち老書生の背中に下がった長い辮髪を断ち切った……。老書生はすっかり取り乱し、頭を抱えて逃げ出し、大声で叫んだ。‟助けてくれ!私は……人に顔向けできない、生きていけない……”そんな彼を見て、ある者は大声で笑う。またある者は軽蔑して問題にしない!ある者は首を横に振って嘆く!
秋瑾は不愉快を覚え、陳天華の方を見ると冷ややかに‟あなた、大したものね!“と言って短刀を奪い返すと鞘に納め、振り返りもせずに足早に立ち去った。途中周樹人たちのそばを通りかかると、手を振って声をかけ、共に歩いていく。
この情景をずっと見ていた陳天華は、ふと人だかりから離れ、まっすぐ会館の外へ飛び出して行った。その顔は無表情で、足取りはおぼつかない。ただその胸は絶えず起伏を繰り返していた。彼の胸中は激しく波打っていた。彼の魂を叩いていたのは怒り、彷徨、自責、沈痛だった……

遠い郊外の‟相模湾”の海岸、岩礁に打ち付ける波が水しぶきを上げている。
飛び散る水しぶきが陳天華の顔にふりかかるが、彼は茫然として感じない。ただひたすら岸辺の崖に続く小道を進んだ。何かを口ずさんでいる。
長夢千年何日醒, 長き夢千年いつの日か醒めん
睡郷誰遣警鐘鳴? 眠れる故郷に誰か遣らん警鐘の鳴
腥風血雨難為我,  腥風血雨我に難を為し
好個江山任送人! 好(よ)き江山任せて人に送る!
(任意に他者に渡してしまう)
(陳天華《絶命辞》より)
・・・・・・・・・・・・
陳天華は崖の頂上に昂然と立ち、天を仰ぎ詠嘆する。‟蒼穹は見ている、太陽と月が証人だ。謹んで天華の七尺の身体を以て、同胞を目覚めさせ、中華を救うのだ――“ 朗々と震える声と共に身を翻して青く広々とした海に身を投げた……

(十八)

  高波が激しく相打ち、ごうごうという波音が海と空を貫く。
(画面がオーバーラップ)――
空に舞うポスター:‟清国の学生陳天華入水自殺!”
沸き立つ大衆:‟陳天華の死を無駄にするな、同胞諸君よ目覚めよ!”
横断幕の標語:‟沈痛の念を込めて警世の先駆け陳天華を追悼する!”
…………

‟沈痛の念を込めて警世の先駆け陳天華を追悼する!”という標語が清国留学生会館の正門の上に高く掲げられた。
身を切るような寒風が吹きすさび、横断幕がパタパタと音を立てる。それは死者への哀悼にも、毅然と不正を訴える呼び声にも聞こえる!
正門前には各学校から留学生が詰めかけている。それぞれが手にしている各種の祭旗は白地に黒い字で、大いに目を引く。それらはまるで無言の哀悼と声なき抗議のようだ!
ヒューヒューと風が吹き、寒さが身を苛む。皆が切実な気持ちで見守る中、秋瑾をはじめとする十数人が会館から出てきて、陳天華追悼の主催者講壇に整然と並んで立った。
この日の秋瑾は喪服に身を包み、中国式に結いあげた髷に白い生花を挿し、厳かにして清楚ないでたちだ。秋瑾は軽く咳ばらいをし、なにかしら申し訳なさそうな口調で‟この寒さの中、追悼のためお集まりいただき、有難うございます!”と言うと、また何度か咳をして、‟す、すみません!本日、陳天華突然の逝去にあたり、皆さんはきっと悲しんでおられ、私は更に悲痛な思いです。——彼は私の良き弟分でしたが、私は彼をいたわることができず、救うこともできませんでした……” 秋瑾の言葉には自責の念がこもり、ほとんどすすり泣きとなって、続けられなくなった。
周樹人はその様子を見て、秋瑾の言葉を引き継ぎ、大きな声で‟皆さんご覧ください――”と言いながら、両手で一枚の原稿を掲げ、字の書かれた面を皆の方に向けた。‟これは陳天華兄弟が残した「絶命辞」です!”
‟絶命辞!なんと言っているのか?”前列の誰かが思わずこう言う。
‟ここで読み上げて哀悼を表すことをお許しください――
長夢千年何日醒, 長き夢千年いつの日か醒めん
睡郷誰遣警鐘鳴? 眠れる故郷に誰か遣らん警鐘の鳴……”
周樹人が陳天華の遺作を朗読する声には、感情がこもり、しみじみと心にしみわたった。
‟皆さん、心にとめてください!”秋瑾は悲しみから立ち直ると、溢れんばかりの感情をこめて、‟これこそは陳天華の真実の思いであり、誓いです。私たちを常に照らし導く光明です!” 激高した言葉は熱狂的な拍手を浴びた。
秋瑾はにわかに感極まって、大声で問いかける。‟皆さん、陳天華の警鐘に、我々はどう応えるべきでしょうか?”
‟帰国だ!”誰かが大きな声で叫ぶ。‟我々全員で帰国しよう!”
‟祖国の沈淪には、我々にも責任がある!”
‟帰国して国を救うのだ!”……
四方八方が呼応し、叫び声が上げ潮のように湧き上がる。
秋瑾はその声に一層勇気づけられて、きっぱりと、‟その通り!そうと決まれば、すぐ行きましょう、グループで行動しましょう。いつの日か中国の地で合流し、新天地を拓きましょう!”と言うと、雷のような拍手が鳴りやまない。
拍手の中、秋瑾は傍らの周樹人に両手を差し伸べ、しっかりと手を握り合った。‟豫才さん、競雄(競雄女侠=秋瑾)私はあなたを信頼しています、よろしくお願いしますよ!”周樹人は万感こもごも胸に迫る思いで、無言で応え、周りの歓声の中遠くの空を凝視していた。

(十九)

  海岸の奇妙な形の岩礁に波が打ち寄せ、飛沫を上げている。干潟の波は、寄せては返し、その度に砂浜が見え隠れする。一匹の大きな蟹が大儀そうに、迷いながら新しい波の跡へ向って行く……。

大都会上海の高い建築物は、外灘に林立している。黄浦江の濁った水の上を、外国の貨物船がゆっくりと行き来して、奇妙な汽笛を鳴らしている。
魯迅は黄浦江を見下ろすベランダに立ち、どんよりと曇った東の空を眺めている。硬い短髪が風に吹かれるままになっている。この時、魯迅は振り返って吸っていた煙草を消した。両の手は後ろで組んでいる。唇をしっかりと閉じ、物思いにふけった目をしている。
‟先生、また日本のことを考えているのですか?”黙って本棚の前に立っていた増田渉が、手に原稿を握って、魯迅の後ろに立ち、丁寧に話しかける。‟すみません!お邪魔ではなかったでしょうか……”
すると、‟ほほ、先生は学生が訪ねて来るのを煩わしいと思ったりしませんよ!”と許広平が急須を手にやって来て ‟それより、私のお茶の入れ方が気になるようですわ……”と続けた。
魯迅は目を凝らしたまま、‟いや、いや、増田君が今聞いたことを、私もちょうど考えていたんだよ。――秋瑾が紹興の大道学堂で逮捕された時、少しも死を恐れなかったが、彼女は本当に死ななければならなかったのだろうか?”
増田渉は原稿を開くと、表紙の《药(薬)》の文字が見える。‟私は先生の小説を読んでわかりました。秋瑾は小説の主人公のモデルで、彼女の血が一個のマントウを染めたのですが、このマントウは決して良い薬にはならず、世の中にはびこる病を治すことなど到底できない!”
魯迅は振り返って、この察しのいい日本の学生を頼もし気に見ると、その手から原稿を受け取り、表紙の《药(薬)》の文字を叩きながら、‟そうだよ!薬はその症状に合ったものを、適切な時期に処方しなければならない。問題は、ここにあるんだ。――秋瑾たちの反清政府の義挙は、辛亥革命に四年も先立つ時期に、性急に行われたが、結局惨めな失敗に終わった……”

(画面がオーバーラップ)
紹興府政府の‟古軒亭口”の処刑場は四方にたいまつが灯り、夜明け前の暗闇の中で、一層気味悪く恐ろしげである。
刑場の周囲にはびっしりと兵士が配置されている。兵士の後ろにひしめいているのは押し寄せてきた群衆である。彼らは恐ろしさに緊張し、好奇の念で茫然とした表情をしている。
秋瑾は囚人服をまとい、手かせをはめられ、よろめきながら刑場の前方にある机の方に歩いて行き、卓上の墨と筆と紙を一瞥した。そして、平然と微笑み、手を伸ばして筆を執り、ゆっくりと顔をあげて天を仰ぎ、たちまち身をかがめて筆を走らせた。秋風秋雨愁殺人(秋風秋雨人を愁殺す)――

‟ボ―!ボボ――”外国の貨物船が汽笛を鳴らし、いささか興ざめの感がある。
魯迅が続ける。‟秋瑾が義に殉じる前に書いた「秋風秋雨愁殺人」の七つの大きな文字は正に彼女の国と民の行く末を憂いながらも、志半ばにして果てた心の叫びなのだ。”と言いながら、手にした原稿を増田渉に返した。
‟実に敬服すべき鑑湖女侠だったのですね!惜しい方を亡くしました……”と、増田渉は原稿の表紙を叩く。
‟ああ! そうやって叩くのだよ、人々はあの女仁侠を前にして、あんなにも多くの拍手を贈った――”魯迅は感慨深げに‟もしかしたら、その拍手が、彼女を死へ送ったのかもしれない!”
‟分かります!拍手は人を奮い立たせますが、人を死に至らしめることもある。” 増田渉は何かを悟ったかのように、‟先生!先生の本にある「药(薬)」は、人を救いまた傷つけるという意味があるのですね?それならば、本当の良薬、先生は見つけられましたか?”
‟見つけたとも!”魯迅は目を見開き、興奮しながらも、秘密めいた口調でこう続けた。‟実はね、結局はやはり仙台で、藤野先生のところで見つけたんだよ!“
‟おお! そうでしたか……”増田渉は何が何だかわからない。

(二十)

  ‟東京駅”。行き交う汽車の汽笛が‟ポー!ポー――”と響く。
周樹人は軽装で旅立とうとしている。発車を待つ車両の入り口付近に立ち、許寿裳がうなだれて寄り添っている。
‟君、どうかしたのか?何を考えているんだ?”周樹人は顔をあげ遠くを見たまま尋ねる。
‟陳天華が自殺し、秋さんは帰国してしまい、君は仙台へ行くという。僕は、僕はやりきれないよ……”許寿裳はこらえきれず涙を流す。
周樹人は急いでハンカチを取り出すと許の手に握らせて、‟男だろ、涙は心の中に落とせ! しかし、今回仙台に戻ったらいつまた東京に来るかなあ?”
許寿裳は更に感傷的になって、泣きべそをかきながら‟君、何とか早く帰って来られないのかい?”
‟来たよ、来たよ!“ 周作人が煙草の包みを抱えて駆け付け、息を切らして‟兄さん!ご指定の煙草がなかなか見つからなくてね、 でも、やっと手に入ったよ……”
今一度汽笛が鳴る! 周樹人は慌ててポケットからお金を取り出すと、全部周作人に渡し、汽車に乗りながら、‟作人、兄弟の仲でも、お金はきっちり計算しなけりゃね、煙草の代金をちゃんと数えて、多かったら、次会ったとき返してくれよ! はは――”汽車が動き出した。
‟はは、返すもんか、次に会ったときご馳走してもらったことにするよ!”窓の外の周作人と許寿裳の姿がどんどん小さくなっていく……

汽車は原野をひた走る。
周樹人は通路側の席に座り、窓の外の景色を見ていた。懐か煙草の紙箱を取り出すが、目は窓の方を見ている。両手で煙草の紙箱を破ったが、一本の煙草も出てこない。そこで、振り向いて立ち、荷物棚から買ったばかりの煙草を取り出して座り、悠々と火をつけた。
汽車の窓の外の木々は次々と去っていく。周樹人の目に映っているのは人の姿だった――
陳天華が決然と海に飛び込む姿;
秋瑾の演説に沸き起こる雷鳴のような拍手;
周作人が《域外小説集》の翻訳に没頭する姿……
周樹人は急にぶるっと身震いした。煙草の火で指を火傷しそうになっていたのだ。慌てて腰を曲げ、煙草の火を消す……。この時、汽車が駅に着いて、乗客が次々と乗り込んできて、瞬く間に空席がふさがった。
年輩の農婦が重い包みを提げてふうふう言いながら周樹人の近くまでやってきた。彼女はまだ奥へ行こうとしているようだった。周樹人はさっと立って、‟おばあさん、ここ空いてますよ、どうぞ!”と言うや、手を伸ばして包みを取り上げ、持ち上げて荷物棚に載せた。年輩の農婦は驚き、喜んで‟有難う!有難う――”と言って腰を下ろすと、申し訳なさそうに‟あれまあ、この席は温かいよ、あんたさん、ご自分の席を譲ってくれたのかえ?”
周樹人は‟同じことですよ”と笑って‟誰が座っても温まります。おばあさんは、ご高齢なのに大変でしょう、ゆっくり座って休んでください!”
“お若い方、心が優しい上に、言葉も優しいね。親御さんのしつけがいいんだね!”と言うと年輩の農婦は背負っていた袋の中をごそごそとしばらく何か探していたかと思うと、とうとう一袋の美味しそうな煎餅(ジエンビン)(水に溶いた粉を薄く伸ばして焼いたもの、お焼き)を一袋取り出して、にこにこと周樹人に差し出した。
‟わあ!おばあさん、こりゃありがたい――” 周樹人は正直に言った。‟あわただしく出てきたから、ちょうどおなかがすいていたんですよ、へへ!”
‟なら、すぐにお食べ、お食べ、すきっ腹はいけないよ!”年輩の農婦は親身になって言う。
‟じゃあ、有難くいただきますよ!”周樹人も嬉しそうに煎餅(ジエンビン)を持って通路の突き当りまで歩いて行き、車両と車両のつなぎ目のところで、周りに誰もいないのを見て、大きな口でパクパクと豪快に平げた。
‟ポー――!” 汽車がまた駅に着いた。周樹人は非常にのどが渇いていた。 汽車を降りるとちょうどお茶売りを見かけたので、急いでお金を出そうとして、一文無しなのに気づく。そういえば東京で汽車に乗るとき、小銭を全部周作人に渡してしまっていたのだ。仕方なく苦笑いをして引き返し汽車に乗った。
遠くの汽車の窓から、あの年輩の農婦が首を伸ばしてその様子をにじっと見ていた……
汽車がまた動き出した。 周樹人は車両の通路に戻り、元の位置に立った。突然、いっぱいの熱いお茶が目の前に差し出された。そしてそこには菊の花のような笑いじわでいっぱいの顔があった。
‟よう、おばあさん、ほんとに不思議な方だ!”熱いお茶を受け取って周樹人は胸がジンと熱くなるのを感じた。
‟ふふ、不思議かどうか、天が知ってる。熱いうちにおあがり!”年輩の農婦は眉に皺を寄せて笑う。
周樹人はこの熱いお茶を手に、しみじみと農婦の顔を見つめ、一口すすった。お茶は特別香り高く、のどを潤した。顔をあげて見ると、あ! そこには優しい母の姿があった。思わず胸が熱くなってしまった! 目を擦ってまた一口飲み、再び顔をあげると、あ!なんとそこには白い花を髪に挿した秋さんが見えた……しきりに鼻の奥をツンとさせる周樹人だった。

(二十一)

  古い城下町仙台がぼんやりと見えてきた。近くを流れる渓流がさらさらと水音を立て……両側に積もった雪が白く美しい。
周樹人は荷物を背負って、東京から仙台医学専門学校に戻ってきた。ここで少し休むことにする。頭に浮かぶのは
藤野先生と肩を並べて散歩したこと;
二人で楽しんだ温泉……

仙台医学専門学校の六号階段教室。
学生たちは春になって学校に戻り互いに挨拶を交わす――
ベルが鳴って、藤野先生が時間通り教室の入り口に現れた。今日、先生は重いアルミ製の箱を提げていた。それを両手に力を込めて講壇の上に持ち上げた。
‟学生諸君、良い正月でしたか!”藤野先生は笑顔である。
‟先生、新年おめでとうございます!本年もよろしくお願いします!”学生たちは声をそろえて、毎年言い慣れた挨拶を述べる。
‟こちらこそ!”お決まりのやり取りが終わると、話題が変わる。藤野先生は続けて、‟今日の授業は、実験の設備が多いので、まだ運んでいる途中です。この時間を利用して、いつものように、皆さんにはまずニュース幻灯を見ていただきます。職員が来て操作してくれます。私は30分後に来て授業します……”と言い終わると、行ってしまった。二人の職員が速足で教室に入って来て、スクリーンを掛け、箱を開けて、小型幻灯映写機を組み立てた……。
学生たちは、その間に、それぞれ幻灯鑑賞に適した席を確保しようと調整した。眼鏡をかけた者たちは次々と前列に移動した。
‟今日は何か面白いニュースがあるだろうか?”と誰かが問う。
‟ニュースというからには、新しみがあるにきまってるよ!”近くに座っている者が答える。
この時、周樹人はちょうど自分の手提げかばんを提げて、後ろの列に移動するところだった。
‟周君、前の方がよく見えるよ!”
‟有難う、僕は目がいいからどこでも大丈夫だよ!”

小型映写機が放映を始めた――
日露戦争(1904.2.8~1905.9.5)のトピックス:戦場の惨烈な記録、光る刀剣の刃、激しい戦い:(教室はすすり泣きに満ちる)
ロシア軍が敗退し、日本軍が進撃する。旭日軍機がはためき、軍刀を振るって前進する。(学生たちは大いに興奮して、抑えきれずに歓呼する)
突然、画面に一人の清国の男が現れた。 上半身裸で、両手は後ろで縛られ、長い辮髪がゆらゆら揺れている、男は恐れて、きょろきょろしている。
幻灯の解説‟戦闘中に、ロシア側のスパイが捕まったが、なんとそれは清国人だった。市街を引き回しにされたうえ、その場で銃殺された。”
画面が次第に推移して、拡大画面になった。見ると、その男を取り囲む群衆は皆長短の辮髪を垂らした者たちだった。 しかも、皆首を伸ばして、面白そうにその後に展開する‟見世物”――銃殺を期待しているのだ!
教室には既に軽蔑してあざける笑いが起こり、こそこそ私語する者もある……。
周樹人は青ざめた顔は、映写機の光に照らされて、赤くなったり紫になったり……ついにいたたまれなくなり、立ち上がって上着をつかむと階段教室を駆け下り、振り向きもせず寒風が骨身に突き刺さる広野へとつき進んでいった……

周樹人の疾走する両足;
周樹人の冷たく厳しい怒りの表情;
周樹人の鋭く光る瞳――
彼の目の前にまたもニュース幻灯のシーンが浮かぶ:
長い辮髪を垂らした囚人が突き倒され跪く姿;
短い辮髪を垂らした見物人が首を伸ばす姿;
辮髪のない死刑執行人が拳銃を構えて発砲する!

‟パン――!”はっきりとした銃声が、周樹人の狂奔する足を止めた。まるで夢から醒めたように、見れば、広野で一人の猟師が銃で大きな灰色の鳥を射落とした。その鳥は地に落ちてもがき苦しみ、血を流す……

(二十二)

  藤野先生の宿舎の部屋は書斎を兼ねていて、いささか窮屈だ。
書棚が並び、模型が積み上げられている。藤野先生はあちこちとひっくり返して何か急に必要になった資料を探していた。
‟ドンドンドン!” 外で戸を叩く音が聞こえ、先生は顔をあげると、眼鏡をかけなおし、入り口に向って‟お入りなさい!開いてますよ――”と言う。
入ってきたのは周樹人だった。手にはまだ外套を提げており、紅潮した顔には汗が噴き出ている。
周樹人は口を開き、顔を拭って言う。‟先生、お忙しい所をお邪魔してすみません!”
‟構いませんよ。おかけなさい!”
‟本当に申し訳ないのですが、先生! 僕は、退学します!”
‟ええ? 君……今なんと……?”
‟退学すると、申し上げました。”
‟はあ! 聞き間違いではないよね? 冬休みが終わったばかり、もうすぐ春だというのに、君は退学するというのか?”
‟そうです、僕は退学します!”
‟どうして!” 藤野先生は一歩前に進み出て、周樹人を見つめ、‟君は一心に西洋医学を学び、ちょうど、進歩が見えていたではないか?それなのに、なぜ……なぜ中断してしまうのだ?”
“先生、聞いてください――” 周樹人は語気をやや緩めて、出来るだけ丁寧に説明する。‟西洋医学でも、中国の医学でもいい
です。でも、清国の愚か者、悪辣な愚か者が相手では、医学で治すことができるでしょうか?……ダメなんです、出来ないんです!あの愚か者はどこが悪いって、思想が悪いのです。魂が病んでいるのです。……ですから僕は、筆を執って――この筆というメスで、奴らの頭の中の病巣を切り取ろうと決心したのです!”
藤野先生は腰を下ろし、眼鏡をはずし、ゆっくりとレンズを拭きながら、静かに口を開いた:‟周君、聴いたよ、君はあのニュース幻灯を見て、心を傷めたんだね、感情的になるのは無理もないことだ。でも、本当によく考えたのかね?”
‟よく考えた上のことです!その上で退学することにしたのです!”周樹人は恩師の前で姿勢を正す。
‟ううむ……医学のメスとて使いこなすのは容易ではない、魂のメスも容易ではないと思うが?”藤野先生は何とか考え直せないものかと、試すように問いかけた。
周樹人は胸を張る。‟先生のご指導には感謝しております!魂のメスは確かに容易には使いこなせません。でも、僕は一生これを振るい続ければ、きっと大人を、いやそれ以上に子供を救えると信じています!”
藤野先生は立ち上がると、慈しみを込めて周樹人の洗濯ブラシのようにはねた髪をなでて優しく整える。そして、机の方に向って引き出しから一枚の写真を取り出した。――それは藤野先生の上半身の肖像だったが、藤野先生はそれを裏返し、筆を執ってかがむと、真っ白な写真の裏面に「謹呈周君」という、文字を書いた。周の文字は太く力強く書かれた。藤野先生は少し考えると、また、この白い裏面の右側に 惜別、藤野と書いた。
カメラが写真の画面から引いて遠のくと、写真は既に周樹人の両手に受け取られていた。周樹人は恩師藤野嚴九郎先生に深々とお辞儀をし、再び、お辞儀をし……三度お辞儀を済ませると、胸がいっぱいになり、目に涙を浮かべてゆっくりと先生の宿舎を出て、振り返って名残惜しそうに戸を閉めた。

(二十三)

  汽笛を響かせ、汽車が原野を疾走する。
窓際に座った周樹人は、まだ藤野先生の写真を手にして、恩師の面影をじっと見つめている。写真の裏の「惜別 藤野」などの文字がはっきりと見える。

魯迅の声:
藤野先生のこの‟惜別”の二文字は、二十年前、私と別れる時に書いてくださったものだが、その心から別れを惜しむ気持ちは、私周樹人の心の扉を明るく照らしてくれた――。あの時、私は陳天華との別れを体験したばかりであり、また引き続き、秋瑾とも永遠に別れることになった。その後も、どれだけの別れがあったことか……。だが、私はこの‟惜別”はきっといつか再会に報われると固く信じている。――人々の理想と抱負の再会――人々の再会を渇望する無限の力に報われることを!

車窓の外の木々はすごい速さで後ろへ遠のく――
木々は周樹人たちの奔走する姿に変わる;
周兄弟は苦労の末、雑誌《新生》を刊行する;
許寿裳等は学校で《浙江潮》を校正し、植字する……

魯迅という筆名が次々と紙上に現われる――
《狂人日記》‟子供を救え!” ‟歴史を紐解けば、「吃人(人を食う)」の二文字に満ちている!”
《阿Q正伝》‟その不幸を哀しみ、その闘わざるに憤る” ‟二十年後にはまた一人の好漢”
《药(薬)》‟人の血を吸ったマントウが人を救うことなどできるだろうか!” ‟墓前の花は、誰が捧げたのか?”
《故乡》‟この世界に初めから道はない、歩く人が多くなるとそれが道になるのだ”

(エピローグ)
上海万国共同墓地。葬送曲が人々の涙を誘う。
葬儀参列客の待合室。黒い喪服の参列客たちは礼儀正しく互いに慰藉(いしゃ)を交わす。
「魯迅先生遺品収集所」の立札と収集台の傍らに、許広平と宋慶齢が厳粛な面持ちで立っている。多くの参列客が秩序正しく列について進み、順次書簡などの大切にしまっておいた品物を差し出す……許広平はそれらを記帳し、宋慶齢が分類整理した。
クローズアップ:プロローグで現れたあの藍印花布が、ゆっくりと解かれている。現れたのは重ねられた「授業ノート」――
周樹人、仙台医学専門学校在学中における心境の変化の過程:
開いたノートの1ページは人体解剖学の循環器系統図。
図がだんだん拡大されると、ひじから手首までの腕の血管がはっきりと見える……
増田渉の声:
‟当時、周樹人はこの血管をより見栄え良く描こうとして、少し位置を動かした、藤野先生はそれをもとの位置に戻して、図の上で見栄えが良くても、解剖の時には見えないよ……とおっしゃったそうです。藤野先生は周樹人の先生で、魯迅先生は私の先生です。私が語ってきたのは先生と先生の先生の縁です。皆さんにもご自身と先生との物語があるのではないですか?きっとおありだと思います。それにしても良き師となることはなんと得がたく尊いことか!”
……腕の血管が次第に一本の筆に変わる。魯迅が速い筆の運びで書いている。字には血と涙が滲んでいる:子どもを救え!
(終)

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