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夜半の鐘声-追記

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  この本の著者である芹川氏に初めてお会いしたのは、2017年の5月のこと。待ち合わせ場所のJR赤羽駅の改札口で満面の笑みで迎えてくださった芹川氏は、長時間にわたって、いやな顔ひとつせず初対面の研究者のインタビューに応じてくださった。

  芹川氏と私を結び付けたのは、1983年の新聞記事だった。ここ二十年来、戦時中および戦後、現地女性と敵国兵士等との間に生まれた子供たちの研究が、ヨーロッパをはじめ世界各地において進んできている。このような子供たちは英語で、チルドレン・ボーン・オブ・ウォー(children born of war; 戦争で生まれた子供たち)と、呼ばれている。しかし、八年も続いた日中戦争に関しては、戦時中日本人男性と中国人女性との間に生まれた子供たちに関する研究は現時点では存在していない。このような背景の下、欧州連合の支援により、チルドレン・ボーン・オブ・ウォーの研究ネットワークが2015年に結成された。私はこのネットワークの一員として、日中戦争中および戦後直後に日本人の父親と中国人の母親との間に生まれた子供たちの研究を行うこととなり、日本と中国でインタビュー対象者を探し始めた。このような「日中戦争で生まれた子供たち」の呼称は存在しないため、私はまず国会図書館で、少しでも関係のありそうな新聞記事を検索しては、ひたすら目を通していった。その時目にしたのが1983年5月4日付けの毎日新聞の新聞記事だった。その記事には、旧日本軍少将であった父親と中国人の母親との間に1944年に誕生した芹川氏のことが書かれてあった。当時浙江省在住の新進劇作家であった芹川氏が、初めて父の祖国である日本を訪れ、実に三十八年ぶりに日本人の父親と墓前で対面したという。そして、「父の祖国と中国との文化交流の架け橋になる」という強い思いから、魯迅の作品に取り組んでいた日本の劇団に舞台指導に出向いたということも書かれてあった。何とかして芹川氏に会いたいと考えた私は、この劇団の情報を頼りに元劇団員の方々にメールをしてみた。その結果、1987年に父祖の国である日本に移住した芹川氏に幸いにも連絡がつき、お会いすることができたのだ。

  インタビューに応じてくださった芹川氏は一貫して前向きだった。今までも、どんな苦難も「前へ、前へ」という原動力に変えて来られたのだと強く感じた。インタビューは日本語で行われ、その語彙力からも、芹川氏の明るさの裏に隠れた長年の努力と強い知的探究心が垣間見られた。

  インタビューで特に印象的だったのは、芹川氏がおもむろに差し出したメモに書かれてあった「戦争の幸運児」という、自らを形容する言葉だった。中国で「敵の子」、「日本人の子」として文化大革命の嵐の中を生き抜いた芹川氏に「幸運」と思わせるものは一体何なのだろうか。もちろん、持ち前の明るい性格なども影響しているだろう。しかし、そのヒントがこの自伝を基にした『夜半の鐘声』の中に描かれているように思う。

  日本の侵略戦争により、中国において多くの無辜の市民が命を落としていった中、戦争は両国の男女の出会いももたらした。戦時中という極限状況下では、どんなに愛し合っていたとしても敵国男性と現地女性の恋愛・結婚には相当な覚悟が必要であったに違いない。『夜半の鐘声』に描かれている主人公の両親の物語は、芹川氏が実際に母親から聞いてきた戦時中のラブストーリーと数々の父親にまつわるエピソードに基づいている。戦後、単身引き揚げなければならなかった父親は、芹川氏の人生のほとんどの間不在であった。しかし、愛情溢れる母親の語りによって、芹川氏の心の中に父親はしっかりと生き続け、自尊心を育み続けてきた。その自尊心が、自らの道を切り拓く鍵となり、ひいては、父の国である日本に永住することを決意させるに至ったのではないだろうか。愛情を注いでくれた母親と、そして、想像の中の父親と、良好な関係を築き上げてきたからこそ、過去の苦難の恨み節など微塵も口にせず、自らを「戦争の幸運児」と言い切れるのではないだろうか。

  そんな芹川氏は『夜半の鐘声』の構想を長年温めてきた。前述した三十七年前の新聞記事の中でもすでに、自分をモデルにした反戦劇の脚本を書きたいと述べていた。そんな彼の労作が戦後七十五周年を迎える今年出版されることは非常に感慨深く、大きな歴史的意義があると考える。

  当時三十九歳であった芹川氏が新聞記者に語った「父の祖国と中国との文化交流の架け橋になる」という誓いは今も全く色褪せていない。この作品を通して、日中戦争で生まれた子供の人生に光が当てられ、日中の歴史・文化への理解が深まることを願ってやまない。

二〇二〇年三月十五日 倉光佳奈子

向かって左が倉光佳奈子氏。インタビュー後に本書の著者と記念撮影

寄稿者紹介

  倉光佳奈子(くらみつ・かなこ)、1977年生まれ、神奈川県川崎市出身。1999年青山学院大学国際政治経済学部より学士号、2013年フィンランドのトゥルク大学東アジア地域研究学部より修士号取得。

  会社員、日本語教師などの職を経て、2015年より、欧州連合の支援の下に結成されたチルドレン・ボーン・オブ・ウォー(CHIBOW)ネットワークに研究者として参加。現在、イギリスのバーミンガム大学歴史学部博士課程に在籍中。日中戦争中、および戦後まおない頃、中国において日本人男性と中国人女性との間に生まれた子供たちの経験とアイデンティティについて研究している。

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