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不識廬山真面目,只縁身在此山中

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不識廬山真面目,只縁身在此山中
(廬山の本当の姿がわからないのは、山の中にいるからだ)

  宋の蘇軾の詩「題西林寺壁」より—

  橫看成嶺側成峰,遠近高低各不同。
  不識廬山真面目,只縁身在此山中。

  橫ざまに看れば嶺と成り側よりは峰と成る,遠近高低各同じからず。
  廬山の真面目を識らざるは,只身の此の山中に在るに縁る。

  江西の風光明媚な景勝地「廬山」を訪れると、「西林寺」と呼ばれる寺院に行き当たる。蘇東坡がここを訪れた時、感じるところあって寺院の壁に詩を書いた。水平に見ると(正面から見ると)、廬山は起伏のある高い尾根のようです。側面から見ると、廬山は背の高い崖になります。廬山の本当の姿がわからないのはなぜか?このような水平と垂直の違いがあるのは、私がこの山にいるからであり、立ち位置の制限を受け、距離を取って見ることが出来ないからだ。当然のことながら、見る角度の違いは異なる観察結果をもたらす。

  優雅な詩句とイメージで、普遍的で深遠な哲学を伝えている。大所高所から物を見て見通しを立て、偏見をなくすこと。さもなければ、「舅は自分に理があると言い,姑も自分に理があると言う→皆が勝手なことを言ってどれが正しいかわからない」ということわざ通り、盲人が象に触るように、意見がまとまらない。

  世界情勢に対する認識と論説は、特定の論争の渦から飛び出すことによってのみ、物事の本質への洞察の高さまで段階的に合理的かつ実際的に登ることができる。そうしてこそ、「廬山の本当の姿」を見ることができる。

  中国と日本の友好関係の発展の道においても、同じことが言える。「先を行く私に早すぎるとは言わないでくれ、この辺りの風景はひときわ素晴らしい」

(編集者:秦川)

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