更能消幾番風雨,匆匆春又帰去
(あと、どれだけ嵐に持ちこたえられるか。あわただしく春はまたもや過ぎ去っていく。)
宋の辛棄疾の詩「摸魚児」初めの四句—
更能消、幾番風雨,
怱怱春又歸去。
惜春長恨花開早,
何況落紅無數。
あと、どれだけ嵐に持ちこたえられるか。
あわただしく春はまたもや過ぎ去っていく。
春には花の咲き、(散る)のが早すぎることをいつも怨めしく思う。
ましてやこんなにたくさんの花が落とされたのを見るとなおさらである。
詩人は嘆く:どうやって風と雨に耐えることができるだろうか、春はまたも慌ただしく去っていく! 春が過ぎてしまうのを惜しむあまり、花の開花が早すぎるのではないかといつも心配だ。ああその通り、寂しいことに花はすでに落ちてしまっている。
当時、北部の異民族が南下侵攻し、紛争が多発していた。辛棄疾ら大志漲る詩人たちは、外国の侵略と戦い、南宋当局の絶え間ない妥協と後退に対し非常に不満を抱いていた。いかんせん、意余って力足らず、詩に寄せて自分の意見を述べる方法をとり、「春を惜しむ」という名目で胸いっぱいの憂鬱な心を吐露した。
しかし、北宋の文学者であり政治家でもあった晏殊は「浣溪紗・一曲新詞词酒一杯」という詩で、「無可奈何花落去,似曾相識燕歸來。(花が散っていくという自然の移ろいは、どうしようもない。それでも、かつての知り合いのように燕が帰って来る」と詠った。同じく春を惜しむ情感を、晏殊は燕の渡りと関連させて、示唆に富む哲学的な啓発を与えた。どちらも宋時代の傑出した詩人だが、北宋と南宋の背景が異なるため、彼らの作品における「行く春」への思いにはそれぞれ独自の色彩がある。今日の人々が満開の桜を愛でるとき、花が咲き散っていくことへの思いも様々なのだろう。
(編集者:秦川)